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音咲ヒカル blog No.0

 

 

 

 「新たなスタートと、HP&blogの再開に関して」

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。HPの方が無事に準備できましたので、これからまたブログの方も更新して行きたいと思います。 かなりHPの作成に時間が掛かってしまいましたが、私自身はリフレッシュの期間であり、次の作品の構想を考える良い充電期間でもありました。


 今回、HPを新しくした事を一つの区切りとして、自分自身の「Spiritual」(スピリチュアル)な活動を総括する意味も含めまして、HPの「discography」ページには「フォトン・ウェーブによせて」というタイトルの文章を掲載しています。

 

 今後は必要性が無い限りは「Spiritual」(スピリチュアル)・スペースフォースなどに関する内容を書くことはないと思っています。興味のある方はご覧になってみて下さい。

 

 

 またタイトル未定の「新作書籍」についてですが、現在はプロットの準備と、資料集めを含め、親類、縁者を始め色々な方々にお話を伺ったりしているところです。内容につきましては近々お伝えできると思いますので、今しばらくお待ち下さい。

 

 それと、こちらのHPに載せております音咲ヒカルのブログも引き続き更新して行きます。こちらには「新作書籍のお話や、「執筆活動」に関するものを中心に書いて行きたいと思っていますので、どうぞ宜しくお願い致します。

 


 以上、ご挨拶&近況報告でした。


 それでは、また次回。

 

 

2019年10月01日

音咲ヒカル blog No.1



 

 

 

 

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。今回は、実はここ数年くらい毎年のように今年こそはと思いつつもなかなか書くことが叶わなかった事柄を、書きたいと思います。


 以前何かのお話の際に、少し触れたこともありますが、私の母方の家系・家筋のお話です。ご存知の方は読み飛ばして頂いて構いませんが、以前お話した内容よりも今回は広範囲で、深く詳細に書いてみたいと思います。


 私の母方の家筋を辿ると、明治画壇にその名を轟かせ、大衆に圧倒的人気を誇った日本画家・尾竹三兄弟に辿り着きます。「尾竹越堂」「尾竹竹坡」「尾竹国観」、の三兄弟です。*「岡倉天心」、*「横山大観」と衝突し日本画壇史の表舞台から追放され抹消されてしまっていますが、その絵の腕前、画力は本物です。

 

 それが証拠に、各受賞作品、文展に出品した作品や、それ以外の傑作群は現在においても色あせることなく輝きを放っています。(記事内にに添付した画像は現在、「東京国立近代美術館」に所蔵されている作品です。2016年秋のMOMATコレクションにて展示されていた作品になります。「尾竹竹坡・作」)
 話を進める前に、三兄弟それぞれの略歴をご紹介いたします。



「尾竹越堂」(おたけ・えつどう):慶応4年1月28日、新潟県に生まれる。

 

 幼少時に東京にて歌川国政に浮世絵を学んだと伝えられ、明治18年ごろより国雪と号して新潟新聞に挿絵を描く。明治40年、*伊藤博文の命名により越堂と号する。大阪美術会委員、大阪図案意匠絵画会図案部審査員などをつとめる。明治27年富山共進会で銅賞、33年大阪画会で銀賞、第5回文展に「韓信」、第8回文展に「さつき頃」、第9回文展に「湖」、第10回文展に「魚樵問答」が入選。昭和6年12月3日歿(63歳)



「尾竹竹坡」(おたけ・ちくは):明治11年1月12日、新潟県生まれ。

 

 幼少時、南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の号を受ける。明治28年に川端玉章に入門。日本絵画協会、日本美術院連合絵画共進会などで受賞を重ねる。第1回文展入選。東京目黒・雅叙園竹坡の間デザイン。第3回文展にて「茸狩」が三等賞、第4回文展にて「おとずれ」が二等賞(最高賞)、第5回文展にて「水」が二等賞(最高賞)、昭和11年6月2日歿(58歳)



「尾竹国観」(おたけ・こっかん):明治13年4月21日、新潟県生まれ。

 

 幼くして笹田雲石に国観の号を受ける。東京学齢館「小国民」の全国児童画コンクールにて一等をとる。14歳の時、富山博覧会で三等、16歳で日本美術協会一等賞、翌年同会で銅牌を受けた。弱冠20前後から日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会を舞台に受賞を重ねる。第3回文展にて「油断」が二等賞(最高賞)、第5回文展にて「人真似」が三等賞を受賞。昭和20年5月20日歿(65歳)

 

 

 ※ 下記写真向かって左より、「尾竹竹坡」、中央は「尾竹越堂」、右が「尾竹国観」となります。

 

 


* 「岡倉天心」(おかくら・てんしん):思想家・文人。神奈川県横浜生まれ。本名・岡倉覚三(おかくら・かくぞう)東京美術学校(現・東京藝術大学の前身のひとつ)の設立に貢献。著書に「茶の本」「日本の覚醒」「東洋の理想」など。明治43年、ボストン美術館中国・日本美術部長就任。明治45年、文展審査員就任。

 

 

* 「横山大観」(よこやま・たいかん):日本画家。茨木県水戸市生まれ。東京美術学校に第一期生として入学、岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。近代日本画壇の巨匠。第1回文化勲章受賞。茨城県名誉県民。東京台東区名誉区民。

 


 

* 「伊藤博文」(いとう・ひろぶみ)政治家。元老。山口県生まれ。松下村塾にて吉田松陰に学ぶ。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。※ 岩倉使節団副使。初代兵庫県知事。大日本国憲法の起草の中心人物。初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣および、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任。木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛ら明治維新の三傑なき後の明治政府指導者の一人として辣腕を振るう。

 

 

* 「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されていた。

 

 写真、左から「木戸孝允・きどたかみつ」=(桂小五郎・かつらこごろう)「山口尚芳・やまぐちなおよし」「岩倉具視・いわくらともみ」「伊藤博文・いとうひろぶみ」「大久保利通・おおくぼとしみち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、大方の紹介も終わりましたので話を進めます。政治的な敗北というものは恐ろしいもので、それは画壇においても致命的なものであったと思われます。尾竹三兄弟の画業・画力が非常に優れたものであったとしても、岡倉天心、横山大観という当時の日本画壇における政治的な意味も含む実力者との衝突・決裂は後の尾竹三兄弟に対する画業への評価にとって実に厳しいものでした。


 美術書、画界から、その名は抹消され、追放された形となりました。文展にての排除、政治的な策略による尾竹一派に対する落選劇。その後は次第に画壇のメインストリームから、姿を消して行くことになります。
 勿論そうした落選劇や、追放劇の後も画業への意欲は衰えることなく、三者三様に絵を描き続けました。実際に文展において、美術評論家と称する人たちから冷評された作品に、人だかりが出来るくらい、原画には力が宿っていました。美術評論家と称する人たちの当てにならない評価より、そうした人を引き付ける絵の魅力にこそ真価があると私は思います。

 話しは、もう少し続きますが、次回とさせてもらいます。 それから、最後にもう一点、作品を添付しておきます。こちらも東京国立近代美術館に所蔵の作品になります。それでは、また。

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月03日

音咲ヒカル blog No.2

 

 

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。前回からの続きになります。

 今回は、最初に尾竹兄弟が画壇から追放される大きなきっかけとなった、「国画玉成会」(会長:岡倉天心)での衝突劇の内容についてから、話を進めて行きたいと思います。


 「尾竹竹坡」「岡倉天心」の玉成会での衝突は、会長である岡倉天心のある所業について、竹坡が怒ったことに始まります。本来であれば幹事立会いのもとで開票する決まりになっていた玉成会の審査員を選ぶための投票箱を、会長である天心自身が決まりを破り、開票・集計・発表を一人で行ったことに対するものでした。


 当たり前の事ですが、会長だからといって決まりを破ったり、ないがしろにしていい理由はどこにもありません。そして、その会長である天心が選んだ審査員5人は「横山大観」、「*下村観山」、「*小堀鞆音」、「*川谷玉堂」、「*菱田春草」です。その内の3人、大観、観山、春草、は会長である天心の直系です。それが何を意味するのかといいますと、審査員内の多数決の票にあきらかに会長である天心の意志が反映されてくるということを示しているということです。


 審査員5名の内の3名、大観、観山、春草は会長天心の直系であり、言ってみれば会長天心のイエスマンです。そうなると審査が誰の意向をより反映しやすくなるかは明白です。その他にも審査員の選出においてのトラブルがありましたが、ここではその詳しい詳細は省略します。(いずれまた機会を改めて書きたいと思います)
 そうした玉成会においての会長天心とその派閥との衝突により、その後、竹坡は除名、展覧会に出品していた作品も撤回となりました。


 もちろん、すんなりと除名となった訳ではありません。会長である天心は竹坡の除名に対し残るように説得もしています。ですが、それ以上に竹坡自身の決意が固く除名という運びになったようです。
 この衝突劇はようするに天心を頂上とする派閥を形成し、派閥に属する画家を密室談合によって優遇しようと画策していた天心サイドと、派閥に関係なく純粋に作品の優劣によって賞を決めようとした尾竹兄弟サイドとのぶつかり合いであったということです。

 

 

 

 

 岡倉天心サイドとの衝突劇のあと、尾竹兄弟の高人気とは裏腹に文展での審査員による作品の質とは全く関係のない審査によって尾竹作品に対する落選劇が始まります。世の人々からは非常に高い人気を博した作品が落選の憂目を見ることになります。その落選した作品の中でも分かりやすい例が、尾竹国観の「勝ちどき」という作品です。


 尾竹作品がどれだけ人気があり、優れていたのか、そして画家として芸術家として純粋だったのか。尾竹兄弟、特に国観が好きだったという「*夏目漱石」が東京朝日新聞に書いた一文からうかがえます。「老大家・先輩画家であろうと絵が駄目なら歯に衣をきせずに頭ごなしに批判する。国観のこうしたやり方は男らしく敬服のほかない。したがって私は先生の「勝ちどき」を精いっぱい応援していきたい」とあります。


 夏目漱石自身は、その後、画壇サイドと中立な立場をとるようになりますが、私が思うに漱石自身の本音は、この一文が示した通りであったと思います。ですが、自分自身の文学者としての立場もありますから、ある時点から、ある意味、中立的な立場を演じなければならなかったのだと思います。



 


* 「夏目漱石」(なつめ・そうせき): 小説家、文学者、英文学者。東京生まれ。帝国大学(後の東京帝国大学、現・東京大学)卒業。イギリス留学から帰国後、東京帝国大学講師を務める。作品に「吾輩は猫である」「三四郎」「虞美人草」「坊ちゃん」「草枕」「門」など。「明暗」が絶筆。本名は金之助、漱石という号は友人であった*正岡子規より譲り受けたものである。日本を代表する文豪の一人。

 

 

* 「正岡子規」(まさおか・しき):日本の俳人、歌人、国語学研究家。俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。東大予備門では「夏目漱石」・「*南方熊楠」・「*山田美妙」らと同窓。

 

 

 

 *「南方熊楠」(みなかた・くまぐす):日本の博物学者、生物学者、民俗学者。 1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。「*柳田國男」にして「日本人の可能性の極限」と称される。

 

 

 

 *「柳田國男」(やなぎだ・くにお):日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(没時陞叙)。
「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。

 

 

* 後にどこかで書くかも知れませんが、「尾竹越堂」の娘「尾竹一枝」(富本一枝)は当時、東京・成城に住んでいた「柳田國男」のところに数人の婦人たちを集め「話を聞く会」を主催していました。「柳田國男」に直接学びを求めるところに、「尾竹一枝」(富本一枝)のセンスの良さが光っていると、私は個人的に思っております。

 

 

* 「下村観山」(しもむら・かんざん): 日本画家、和歌山県生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業。岡倉天心、横山大観、菱田春草と共に日本美術院の創設に関わる。

 

* 「菱田春草」(ひしだ・しゅんそう): 日本画家、長野県(現・飯田市)生まれ。岡倉天心の門下、明治期の日本画の革新に貢献。重要文化財に指定となる作品を多く残す。日本美術院の創設に貢献。


 

 

* 「小堀鞆音」(こぼり・ともと): 日本画家、栃木県佐野市生まれ。日本美術院創設に関わる。歴史画を得意とする。代表作に「武士」。厳島神社に所蔵の国宝「紺絲威鎧」「小桜韋黄返威鎧」の修理監督を務める。

 

* 「川谷玉堂」(かわい・ぎょくどう): 日本画家、愛知県生まれ。東京美術学校教授。風景画を得意とする。香淳皇后(こうじゅんこうごう・昭和天皇の皇后)の絵の指導役を務める。文化勲章受章。勲一等旭日大綬章。

 

 

 


 

 

 さて、最後は一部ですが、尾竹兄弟の作品の所蔵先を載せて終わりにしたいと思います。作品は所在不明のものも多いので一部のみのご案内になります。ちなみに今回ブログに載せている画像は前回同様、東京国立近代美術館に所蔵されている作品になります。「」内は作品名になります。

● 東京近代美術館 「油断」 「おとずれ」 「三浦大介」など。
● 東京目黒雅叙園 「手古舞い」 「筑波富士」 「梧桐」 「竹坡の間」 「巴」
● 宮城県立美術館 「花吹雪」 「創造」 「韓信」など。
● 新潟県立美術館 「大地円」 「八華会作品画集」 
● 巻神社 「虎溪三笑」 西蒲原郡巻町
● 源昌寺 「寒山拾得」 西蒲原郡並岡
● 富山市郷土博物館 「浄火 満潮」 「鶏頭双鶏」
● 富山市西の番神社 「三韓 貢ぎものを 奉る」 歴史絵馬
● 富山県中新川郡立山町 弓庄郷神社 「天の岩戸」
● 茨木県 水海道市 諏訪神社 「竜と虎」
● 福井・永平寺 天井絵
● 愛媛県 大三島神社 「白鷺」 「若武者」
● 講談社コレクション(講談社・社長室に保管のようです) 「絵本・建国神話」 「口絵原画と色紙」 「絵本・かちかち山」など。

 機会がありましたら、是非ご覧下さい。

 

 

 

2019年10月05日

音咲ヒカル blog No.3

 

 

 

 

 ご観覧いただきありがとうございます。音咲ヒカルです。今回も引き続き私の家筋、「尾竹家」のお話しになります。これまでも解説してきた通り、尾竹三兄弟は日本画壇史から抹消されてしまっていますが、その実力は紛れもなく本物です。

 それは当時、尾竹三兄弟の画力を認めていた文化人、交流のあった才人たちの三兄弟に向けられた言葉を聞いて頂ければお分かりいただけるのではないかと思います。才能のある芸術家、文学者、知識人などが認めていた尾竹三兄弟の才能を今回も少しではありますが、お話させて頂きたいと思います。

 


 それから、まずは誤解のないように、みなさんにお伝えしておきますが、私は何も画壇から追放された尾竹兄弟の屈辱を晴らしたいとか、当時の画壇の闇を暴きたいとかいう思いから、こうした事を書いている訳ではありません。もちろん、画壇においての衝突劇や、追放劇の内幕は知って頂きたいですし、それと共に尾竹兄弟の作品の素晴らしさ、画業。当時、尾竹兄弟と同じく追放や落選の憂き目に合った方々の作品と画業にも目を向けて頂きたいという思いはあります。ですが、どちらが悪で、どちらが正義かとか、公に白黒決着をつけたいとかいった気持ちはありません。


 尾竹兄弟はもちろん。当時、活躍していた画家たち、その交友関係の人物相関図を振り返れば、もの凄い才能と個性を備えた人たちが群雄割拠していた時代であったことは言うまでもありません。ですから、そうした激しい時代の中で互いに、例え内幕や内心がどうであれ切磋琢磨し合い、それぞれの道を歩み、人生を全うしたということで全て良しではないかと、私個人としては思っています。


 当然、尾竹兄弟をはじめお亡くなりの皆様方、各人それぞれに色々な想いはあると思います。ですがそうした過去の記憶もすでに浄化され、何もかもが美しい浮世と現世の淡い夢へと姿を変えているのではないでしょうか。私はそうであることを願いますし、祈っております。そして、もちろんですが、是非とも、皆様方には尾竹兄弟の画業を再評価して頂きたいと思っております。


 そして、これはまた非常に個人的な想いになりますが、私がこうして尾竹兄弟の画業を広めることで、養女としてこの家系に招かれた母を大人になるまで、何不十なく大切に育ててくれた事への恩返しになれば良いなとも思っています。
 また、それは即ち私がこの家系に招かれたということも同時に意味しています。そしてまたそれは、私がここでこうしてみなさんに色々なことをお伝えしていることにも繋がっています。

 

 日本は去る者は日々に疎しで、血縁主義ではなく、家筋主義です。家筋・家徳を守るためにそれに相応しいと思われる人物が天の計らいによって、その家に必要とされ招かれるといことも珍しい事ではないということです。例えば「長尾家」から「上杉家」へと招かれた戦国の名将・軍神として知られる「上杉謙信」のように・・・。

 

 少し意味深になってしまいましたが、いずれもう少し詳しくお話しする機会が来ましたら、また改めてお話しさせていただきたいと思います。

 

 

 

 

 それでは、そろそろ本題に入って行きたいと思います。当時、日本の美術界、芸術界において、様々な波紋を起こした尾竹兄弟ですが、その才能は間違いなく本物でした。画力が本物であるからこそ、周囲の画家たちに、その才能に恐れや様々な念を抱かれてしまったということです。


 尾竹竹坡の死後に刊行された「竹坡遺芳」によると、岡倉天心の盟友であった*高橋太華、東京美術学校・第五代校長、*正木直彦、そして同時代に活躍した川谷玉堂、*安田靫彦、*鏑木清方らの全員が異口同音に、岡倉天心の先見した「これは天才のひとりだ」という感想に同感している。もちろん、この「竹坡遺芳」にてコメントしている画家だけでなく、それ以外の多くの芸術家も尾竹竹坡だけでなく、他の尾竹兄弟に対しても、その才能を認めていました。
 尚、*高橋太華、*石井研堂、*幸田露伴らが、執筆陣に加わっていた「少国民」誌に15~17歳時の尾竹国観が挿絵を描いていました。そして、その挿絵に心動かされていたのが、熱心な「少国民」の読者だった鏑木清方です。
 
 現在は日本画壇から抹消されてしまっていますが。尾竹兄弟の画家としての才能・力量が本物であったという事実は真実であり揺るぎのないものです。
 それは岡倉天心と衝突し、玉成会を退会した後の尾竹兄弟の活躍を振り返れば一目瞭然です。玉成会を抜けた後、文部省美術展覧会に尾竹国観は「油断」という作品を出品します。新聞の絵図評は好意的なもので、国観の画力はもちろん、画面の調和・構成力を褒めるものでした。


 また「油断」に高評価を表したのは英国・ロンドンタイムズの記者であった。英国新聞の絵図評は「油断」について最長の記事を載せています。江戸期の浮世絵との関連で国観作をながめ、女の表情の描出法に興味を惹かれると書いています。
 当時、尾竹国観の「油断」に付けられた売値は1200円。そして、同時期頃に発表されていた横山大観の「流燈」の売値は500円でした。その差は歴然なのです。尾竹国観が胸に秘めていたように、自分よりも画力の劣る者(横山大観等々)に審査員だからと言って自分の絵の評価をされるというのは、本末転倒に感じてしまうのは当然のことにも思えます。自分の画力をきちんと推し量れる物差し、力量を備えてから審査していただきたい、というのは実はもの凄く当たり前の意見です


 そしてまた、審査員の評価は曖昧であってはならないということも、国観はよく言っています。つまり、どこをどのように直せば良いのかを的確に説明できなくてはならないということです。そうでなくては評価した画家に、「では、どのように描けば良かったのか」を問われた時に曖昧な返答しかできないからです。
 評価した画家に対して的確に駄目だったところを説明できなくては審査員の力量を疑われるのは当然のことです。審査員としての力量はないが、政治的な地位があなたよりも上だから審査をしているというのはいかがなものか。納得しかねる部分がある、というふうに国観は思っていたようです。
 さて、その後、政治的に尾竹兄弟が画壇から追放され抹消されてしまったことで、現在では両者の絵の知名度、その他の評価など色々と逆転されてしまっている訳ですが、政治力とは本当に恐ろしいものだと思います。


 ちなみに、明治時代のお金の価値での1200円がどのくらいのものかというと、公務員の初任給50円、教員・お巡りさんだと月のお給料8~9円、ベテランの大工さん、工場の技術者で月のお給料20円、明治時代の1円は今の3000円~3800円の価値に相当しており、消費者物価指数から考えると1円は現在の2万円くらいの価値があったのではないかと言われています。そうした、貨幣価値を踏まえて考えてみますと、国観の作品「油断」に付いた1200円はとんでもない金額だということが、お分かりいただけるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 さて、日本画壇より追放・抹消されたといわれる尾竹兄弟ですが、玉成会を退会する際の岡倉天心の尾竹兄弟に対する残留を促す行動発言や、後に文部省から国観に打診のあった美術学校の教職への招きという事例からは、追放した側と追放された側、もしくは当時の様々な関係者を含め、両者の間でおそらく、何度となく和解の機会があったのだろうと推測できます。


 過ぎた日々を水に流して、そうした誘いに応じる道もあったのだとは思いますが、国観は誘いにはなびきませんでした。おそらくは向こう側から差し出された報酬や地位の回復、名誉の回復を受け入れるとするならば、国観自身や尾竹兄弟が玉成会を退会することを選択したこと自体が無意味な行為であったことになってしまうからです。


 自らの意に反するとして玉成会を退会しておきながら、政治的に追い込まれたからと言ってそれを受け入れるならば、結局は追い込まれれば損得勘定で動く人間であるということを認めるということに他なりません。私が思うに国観は自分はそうした損得勘定で自身の芸術観・精神性を絶対に曲げたりはしないという意思表示として、そうした和解には乗らなかったのだと思います。


 当然、向こうが自らの過ちを認め尾竹兄弟の正義を公に認めたなら話は別だったような気はしますが、それ以外の安易な和解話しなどは、国観は受け入れる気にはなれなかったのだと思います。


 私は個人的に国観、尾竹兄弟の自らの意志を曲げないという姿勢、自らの意思を貫いて人生を全うした姿はとても美しく素晴らしいものだと思っています。


 これがもし、尾竹兄弟が浅ましく損得勘定で動くような人物であったなら、やっぱりちょっと残念に思ってしまうような気がいたします。そうではなくて本当に良かったと私は個人的に思います。そして名誉挽回は今後、私を含め尾竹兄弟の画業、日本文化を次の世代に伝えて行きたいと思っている人たちが、行っていけばいいことだと思っています。

 

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 * 「高橋太華」(たかはし・たいか): 文久3年(1863年)福島県生まれ。児童文学者、小説家、編集者。師、そして強力なパトロンとして生涯に渡って尾竹兄弟の心の支えとなった人物。1900年、岡倉天心に日本美術院に招かれ、特別賛助員として「日本美術」誌の編集などに関わっている。

 ※ 写真掲載なし。

 



 * 「正木直彦」(まさき・なおひこ): 文久2年(1862年)大阪堺市生まれ。明治から、昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で東京美術学校(現・東京藝術大学)の第5代校長。

 

 * 「安田靫彦」(やすだ・ゆきひこ): 明治17年(1884年)東京生まれ。日本画家、能書家。横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し画業を決意した。*前田青邨と並ぶ歴史画の大家。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。初代中村吉右エ門とは同年で親しく、実兄に五代目中村七三郎がいる。文化勲章受章。昭和53年死去。

 

 * 「前田青邨」(まえだ・せいそん):明治18年(1885年)岐阜県中津川市生まれ。日本画家。大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。妻は荻江節の5代目、荻江露友(おぎえ・ろゆう)。朝日文化賞受賞。中津川市名誉市民。文化勲章受章。川合玉堂の後を継いで、*香淳皇后(こうじゅんこうごう)の絵の指導役となる。皇居長和殿「石橋の間」に謹作した壁画「石橋」を加筆。ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシャ夫人像」を完成。昭和52年、死去。

 

 

 



 * 「香淳皇后」(こうじゅんこうごう)明治36年(1903年)~平成12年。久邇宮家出身。「昭和天皇」の皇后。今上天皇の実母。*久邇宮邦彦王(くにのみや・くによしおう)の第1女子。皇太子妃美智子の立后に伴い皇太后となる。皇后となる以前の身位は女王。

 

 

 

 * 「久邇宮邦彦王」(くにのみや・くによしおう)1873年~1929年(明治6年~昭和4年)。日本の皇族。陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。

 日本の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。北朝第3代崇光天皇の男系15世子孫。
 久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇は孫。今上天皇・秋篠宮文仁親王・黒田清子は曾孫。



 


 * 「鏑木清方」(かぶらき・きよかた)明治11年(1878年)~昭和47年。東京生まれ。日本画家。浮世絵師。近代日本の美人画家として*上村松園の門下より出た*伊東深水と並び称せられる画家。父は条野採菊(じょうの・さいぎく)。青年期に泉鏡花と知り合い泉鏡花の作品の挿絵も書いている。清方の門人は数多くいて、歌舞伎役者 3代目 尾上多賀之丞(さんだいめ・おのえ・たがのじょう)も入門していた。尚、雑誌「小国民」の読者であった鏑木清方がほぼ同年代の尾竹国観に対抗意識を燃やす姿は、鏑木清方の自伝「こしかたの記」に記録されています。文化勲章受章。

 

 * 「上村松園」(うえむら・しょうえん)明治8年(1875年)~昭和24年。京都生まれ。日本画家。女性として初めての文化勲章受章者。真・善・美の極致に達した本格的な美人画を念願として女性を描き続けた。

 

 * 「伊藤深水」(いとう・しんすい)明治31年(1898年)~昭和47年。東京生まれ。浮世絵師。日本画家。版画家。実娘は女優・タレント・歌手の(故)朝丘雪路。

 

 

 * 「石井研堂」(いしい・けんどう)慶応元年(1865年)~昭和18年。福島県郡山生まれ。執筆家、編集者、民間文化史家、高橋太華、幸田露伴と同じく雑誌「小国民」の主要執筆者。

 ※ 写真掲載なし。

 

 


 * 「幸田露伴」(こうだ・ろはん)慶応3年(1867年)~昭和22年。東京生まれ。小説家。帝国学士院会員。帝国藝術院会員。第1回文化勲章受章。東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。「尾崎紅葉」や「上田萬年」、「狩野亨吉」らと同級生であった。

 娘の幸田文(こうだ・あや)も随筆家・小説家。高木卓(たかぎ・たく)小説家、ドイツ文学者、音楽評論家、の伯父。作品に「五重塔」、「運命」などがある。*尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。

 

 * 「尾崎紅葉」(おざき・こうよう)慶応3年(1868年)~明治36年。東京生まれ。小説家。*山田美妙らと硯友社を設立し我楽多文庫を発刊。作品に伽羅枕、多情多恨、金色夜叉などがある。門下生に*泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋聲がいる。俳人といしても角田竹冷らとともに、秋声会を興し*正岡子規と並んで新派と称された。

 

 

 * 「山田美妙」(やまだ・びみょう)慶応4年(1868年)~明治43年。東京生まれ。小説家、詩人、評論家。友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社「硯友社」を結成。徳富蘇峰(とくとみ・そほう)らが組織した「文学会」にも参加。華族・公爵・第3代貴族院議長・第7代学習院院長である近衛篤麿(このえ・あつまろ)を会長として結成されていた「東洋青年会」との交流から、フィリピン独立運動家のマリアーノ・ポンセ来日時に東洋青年会を訪問。村上浪六の支援を受け「大辞典」を刊行。「新体詩選」「白玉蘭」「女装の探偵」など作品多数。


* 「泉鏡花」(いずみ・きょうか)明治6年(1873年)~昭和14年。石川県金沢市生まれ。小説家。戯曲、俳句も手がける。尾崎紅葉の門下生の一人。帝国芸術院会員。昭和48年泉鏡花文学賞制定。平成11年泉鏡花記念館開館。「高野聖」「夜行巡査」「乱菊」「鬼の角」「黒猫」「夜叉ケ池」「天守物語」「草迷宮」「海神別荘」など作品多数。

 

 

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 さて、それではそろそろ今回のブログも終わりとなります。現在は色々と忙しい日々を送っていますが、私個人としては今後も、自由に自分の能力を生かして楽しく生きて行きたいと思っています。


 現在準備中の作品を仕上げる事と、尾竹兄弟の画業は勿論、日本の文化・芸術の素晴らしを広めて行く事が自身の活動のメインテーマになっています。


 精神性を含めた質の高い文化・芸術の素晴らしさを多くの方々に伝え広めて行くこと、そこから皆さんに、様々な気付きを得ていただければ幸いだと思っています。そして本物の美意識を持った人が増えれば自然と世の中良くなって行くのではないかとも思っています。

 質の高い本物の文化・芸術、美の力というものは、社会にも、人々にもとても大きなエネルギーを与えてくれます。様々な分野を活性化させる力を秘めていると思います。また人間関係においても美意識はとても重要だと、私は思っています。そうした身近な事も含めて、質の高い文化・芸術を深く広めて行きたいと、思っております。

 

 そして、理想としては、地球という惑星に創られた地球文明が、人間、動物、自然、宇宙それぞれとの調和を保てるような文明へと成熟して行って欲しいと願っております。それでは、また次回。お会いいたしましょう。

 

 

 

2019年10月10日

音咲ヒカル blog No.4

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。今回の最初テーマは私の家系の大爺様の一人「尾竹竹坡」(おたけちくは)にゆかりのある、「目黒雅叙園」(現在は正式名称・ホテル雅叙園東京)です 。

 

 

 宮崎駿・監督のスタジオジブリ作品「千と千尋の神隠し」の湯場のモデルとしても有名な施設。また、太宰治の小説「佳日」にも目黒雅叙園は登場しています。

 

 ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、昭和の竜宮城とも称される絢爛なる総裁を施された「目黒雅叙園」の「漁樵の間」四方の欄間は「尾竹竹坡」(おたけちくは)原図によるものです。

 そしてまた、料亭「渡風亭」の個室「竹坡」(ちくは)に関しては、天井、壁面など全ての原図を描いています。

 

 「目黒雅叙園」(ホテル雅叙園東京)は結婚式、ホテル、レストランなどで知られる複合施設ですので、みなさんの中にも行ったことがある方がいらっしゃるかも知れませんね。

 無料で見学できる場所もありますし、時々にイベントなども行っているようなので、まだ行った事がないという方も、是非一度、豪華絢爛な美しい空間に触れてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

関連動画として Meguro Gajoen - Tokyo - 目黒雅叙園 - 4K Ultra HD  へのリンクです。

 

 https://youtu.be/jxSkXDR30D8

 

 

 

 それでは、次の話題です。今年(令和元年)2019年の9月にニュースで流れていたのをご覧になった方はご存知かもしれませんが、富山市四方荒屋の神明社にて、尾竹国一・おたけくにかず(後の尾竹越堂のことです)&弟子の国晴(くにはる)の作による絵馬が発見されました。

 日本神話を題材にした作品で、天岩戸に隠れた天照大御神を他の神々が祝詞や舞などで岩戸から招きだす様子が描かれています。

 尾竹兄弟の作品は、行方不明の物も数多くあるようなので、今後も何処かで眠っていた作品が出てくることがあるかも知れません。

 

 そして、富山県においては昨年2018年の2月~3月に「尾竹竹坡」の生誕140年記念展が開催されておりました。展覧会には、60点の代表的な作品と資料が展示され、「尾竹竹坡」の画業の全貌を知ることのできる内容になっておりました。

 

 140年経っても、耀きを失わず、色あせない作品と才能。それは即ち本物の芸術作品しか持ちえない魅力を「尾竹竹坡」の作品に人々が感じ取っているからに他ならないのではないかと、私は思います。

 

 私のHPやブログをご覧の方で、まだ尾竹兄弟の作品を見たことがないという方がいらっしゃいましたら、これを機会に尾竹兄弟の作品に触れてみて頂けると嬉しく思います。

 

 

 

 

 

 

 では、今回の最後のお話です。私の地元であります。新潟の「新潟市樋口記念美術館」では、常時「尾竹兄弟の作品」がご覧頂けます。その他、定期的に企画展なども行われております。

 もしかすると、アクセスは地元の方でないと少しばかり不便かも知れませんが、興味のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。私も時々、訪れています。(詳しくは「新潟市樋口記念美術館」のHPにて確認してみて下さい)

 

 さて、「新潟市樋口記念美術館」についてですが、東京・浅草田甫・草津亭(明治5年創業の老舗料亭)寄贈された尾竹兄弟の作品を見ることができる美術館としても知られています。

 ちなみに、料亭:草津亭は、草津亭の初代「藤谷甚四郎」氏が「汝、草津温泉の湯の花を持参し、温泉を開業せよ・・・・・」という大黒天様のお告げを受けたことによるそうです。

 

 新築移転という事情により、草津亭から2015年に「新潟市樋口記念美術館」へ寄贈された作品は、10作品ほどあり、「寒山拾得」「寿老人」「菊慈童」などです。

 

 今回は、みなさんに尾竹兄弟の作品に触れて欲しいという思いから、「目黒雅叙園」を始めそれぞれ紹介をさせて頂きました。

 今後も引き続き、色々な尾竹兄弟の作品は勿論、「尾竹家」に関係する作品などをご紹介して行きたいと思いますので、宜しくお願い致します。

 

 

 私の新作については、次回ご案内・告知をさせて頂きます。お楽しみに。

 

 それでは、また次回。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月15日

音咲ヒカル blog No.5

 

 

 

 皆様こんにちは、音咲ヒカルです。2020年2月になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は現在ゆっくりとではありますが「新作著書」の執筆を進めながら、資料の収集と取材活動に追われております。

 さて、今回のお話の内容は、予告していました通り「新作著書・尾竹三兄弟:評伝(仮題)」に関してになります。

 

 これはどこかでも、お話をしたかと思いますが、私が自分の「家系=尾竹家」のことを知ったのは、今から10年程前のことになります。

 親戚のお兄さんがある事をきっかけにして、家系図を調べてみたようで、そこから「尾竹三兄弟」のことが分かったということでした。

 実際、「闇に立つ日本画家・尾竹国観伝」著:「尾竹俊亮」には、母が育ち、私も小さい頃お世話になった実家の事と、近くにある本家の事が書いてあります。

 

 私としては幼少の頃はもちろん、10年程前に家系に関する話を電話にて母の口から聞かされるまでは、正直、自分自身の「家系」に対しては何の関心もありませんでした。関心がなかったというよりは正確には何も知らなかったという方が正しいかと思います。

 

 また、母から直接家系に関する話を聞いた後も、私としては色々な事情もあり、自分が関わるような類の話ではないと考えておりました。

 ですが、その「家系=尾竹家」に関する話を聞いてからというもの、何かにつけて「尾竹家」に関する事柄を見たり、聞いたりにする機会が増えて行きました。

 それは別に私が意識して調べているとう訳ではなくて、偶然を装った必然として自然と「尾竹家」に関する情報が私の所に集まって来るようになったという方が正しいかと思います。

 それはまるで、天界やあの世から尾竹家の方々は勿論、尾竹家にご縁やゆかりのある方たちからのメッセージのようにも感じられました。

 

 

 そうした「尾竹家」に関する不思議なシンクロニシティが続いて行くうちに、私の方も否が応でも「尾竹家」というものを意識せざるを得なくなりました。そして、私が真っ先に思ったのは、私に一体何をさせたいのか? 何を語らせたいのか? でした。

 「尾竹家」の皆様と、その縁者の方々が、いわゆるあちらの世界から、私に白羽の矢を立てたということはそれなりの意図があると思ったからに他なりません。

 現在、「尾竹家」に関する書籍は何冊か世の中に出ていて、私がそれらの書籍以上のものを書けるのか? といえば正直に言って難しいと思いました。

 現在世に出ている「尾竹家」に関する書籍は、どれも良く情報収集されているし、構成もまとまっていて、私が新たに筆を足して割って入る余地が見当たらないと感じました。

 ただ、その後も色々と思案を重ねていると、ある時1つのアイデアが浮かびました。そして、その1つのアイデアをきっかけにして、構想を膨らませて行くと、ようやく私の手掛けるべき作品の全体像がおぼろげにではありますが見えてきました。

 勿論、今現在も試行錯誤を繰り返していて、作品の全体像を完璧にはつかんではいませんが、自分が創作するものの本質の部分はつかまえることが出来ていると思っています。

 

 

 現在、私の手掛けている「尾竹三兄弟・評伝(仮題)」の始まりは、尾竹兄弟の両親である絵師(画号・国石)父親・「尾竹倉松」(おたけ・くらまつ)と、柏崎城主の娘である母親・「小飯田イヨ」(こいだ・いよ)の間に尾竹兄弟が生まれたところから始まります。

 

 そこから始まり、その後に待ち受ける運命と宿命と縁(えにし)、そして展開する物語の隙間に浮かび上がるのは、数多くの天才・偉人たちとの交流を持ち、天才・偉人を引き寄せ育み、現在もなお世に送り出し続ける「尾竹家」とは何なのか? という大きくて深い謎です。(勿論、尾竹家に関わる全員が天才・偉人という訳ではございません。ただ、何世代にも渡り天才・偉人を世に送り出し続けている家系であるとうことだけは間違いのない事実です)

 

 「尾竹三兄弟・評伝(仮題)」の始まりに登場する尾竹兄弟の父親である絵師・尾竹倉松と、母親である柏崎城主の娘・小飯田イヨはおそらくは、元号で言えば、弘化(こうか)~安政(あんせい)の時代に生まれています。

 

 そこから、長男である「尾竹越堂」(おたけえつどう)が生まれたのが、慶応(けいおう)、そして明治、大正、昭和、平成と続いて、現在私たちの生きる令和まで。尾竹三兄弟の画業を追いかけると同時に、何世代にも渡って続いてきた「尾竹家」自体にも焦点を合わせながら、描かれた書籍になる予定です。

 

 そしてそれはまた、弘化(こうか)又は安政(あんせい)から、令和の私の代まで繋いできたものを私に書籍としてまとめて欲しいという「尾竹家」の家系に縁(えにし)ある多くの方たちの願いでもあるのかも知れません。

 (実際には、弘化(こうか)以前も入ります)

 

 創作している書籍は、みなさん自身の家系や歴史を考えるきっかけになったり。日本という国について、その歴史と文化、尾竹家とその縁者、日本と皆様との関わりなども、垣間見える作品になるのではないかと思っております。

 

 まだ、書き始めたばかりなので、どのように仕上がるのかは著者自身にも分かりませんが、作品の完成を楽しみにしていて下さい。これまで「尾竹家」に関する書物を読んだことのある方も、そうでない方も、興味のある方には是非とも一読して頂きたい作品になるはずです。完全限定生産なので、お買い求めの際はお早めにどうぞ。

 

 それでは、また次回。

 

 

2020年02月15日

音咲ヒカル blog No.6

 

 

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。今回は画家・尾竹三兄弟の長男であった「尾竹越堂・おたけえつどう」の娘、青踏(せいとう)の女「尾竹一枝・おたけかずえ(富本一枝)」と、その夫である人間国宝・「富本憲吉・とみもとけんきち」について書く予定でしたが、予定を変更して、違うお話をさせて頂きたいと思います。

 

 今回のお話の主軸は二人です。一人は青踏の女・尾竹一枝(富本一枝)と、人間国宝・富本憲吉の息子「富本壮吉・とみもとそうきち」です。

 そしてもう一人は、その富本壮吉の幼馴染で親友の「堤清二・つつみせいじ」です。堤清二は作家名を「辻井喬・つじい・たかし」として活動していました。

 

 それでは、話を進める前に簡単にではありますが、二人の略歴を載せておきます。

 

 

「富本壮吉」(とみもとそうきち)1927年1月2日~1989年5月27日 映画監督・テレビ監督・演出

 

 東京都生まれ。陶芸家・人間国宝の富本憲吉と「青鞜」同人の尾竹一枝の間に生まれる。都立第十中学校、旧制成城高校を経て、1952年、東京大学文学部仏文学科を卒業後、大映東京撮影所に入社。

 当初は、企画部に所属していたが、翌年には助監督部に転属 。 「溝口健二」、「伊藤大輔」、「豊田四郎」、「成瀬巳喜男」、「島耕二」らの作品の助監督につく。

 

  1960年、壮吉は「溝口健二」の薫陶を受け『暁の翼』で監督に昇格。

 

 1968年、大映を退職しフリーに。以降はテレビ映画の演出に専念した。特に1983年、テレビ朝日の『土曜ワイド劇場』の一篇『松本清張の熱い空気』(サブタイトル「家政婦は見た!夫婦の秘密 “焦げた”」)は高い反響を得たため、翌年から『家政婦は見た!』に改題してオリジナルのシリーズとなった。
 1989年5月27日逝去。享年62。

 

 助監督作品 :「あにいもうと」成瀬巳喜男。 「或る女」豊田四郎。 「春琴物語」伊藤大輔。など。

 

『あにいもうと』は、1953年(昭和28年)8月19日に公開された日本映画。製作・配給は大映。
「室生犀星」の小説『あにいもうと』の映画化作品の一つ。『秋立ちぬ』、『浮雲』の成瀬巳喜男が監督、脚本は成瀬との作品も多い、水木洋子が担っている。出演は『羅生門』の京マチ子、『野火』の船越英二、浦辺粂子などである。なお、当時、映画監督を志していた田中絹代が監督見習いとして参加し、成瀬監督から映画作法、演出術を学んでいる。

 

* キャスト:「京マチ子」、「久我美子」、「森雅之」、「山本礼三郎」、「浦辺粂子」、「船越英二」、「堀雄二」、「本間文子」、「潮万太郎」、「宮島健一」、「山田禅二」、「河原侃二」、「高品格」、他。

 

 

『或る女』(あるおんな)1954年は、「有島武郎」が大正時代に発表した長編小説を映画化した作品。
1911年1月『白樺』の創刊とともに「或る女のグリンプス」の題で連載を始め、1913年3月まで16回続いた。これは前半のみで、その後、後半を書き下ろしで『或る女』と改題して、1919年叢文閣から『有島武郎著作集』のうち二巻として前後編で刊行した。

 

* キャスト:「京マチ子」、「森雅之」(「或る女」の作者・有島武郎の息子)、「船越英二」、「芥川比呂志」、「若尾文子」、「夏川静江」、「沼田曜一」、「信欣三」、「滝花久子」、「近衛敏明」、「河原侃二」、「長岡輝子」、「浦辺粂子」、「小田切みき」、「岡村文子」、「星ひかる」、「高松英郎」、「高品格」、他。

 

 

 映画・監督作品 

 

 

 ・1964年「獣の戯れ」三島由紀夫」の小説を映画化した作品。3人の男女の間に生まれた奇妙な愛と、その共同生活と終局への決断が、西伊豆の村の豊かな自然や花を背景に高雅なタッチで描かれた物語。

 

* キャスト:「若尾文子」、「河津清三郎」、「伊藤孝雄」、「三島雅夫」、「星ひかる」、「加藤嘉」、「紺野ユカ」、「十和田翠」、「工藤堅太郎」、「井上大吾」、「三夏伸」、「中条静夫」、「早川雄三」、「目黒幸子」。

 

 

 ・1965年「花実のない森」は、「松本清張」の長編推理小説を映画化した作品。上流階級の気風を漂わせる謎の女性の周囲で起こる連続殺人事件を描く、サスペンス・ミステリー。

 

* キャスト:「若尾文子」、「園井啓介」、「江波杏子」、「船越英二」(長男は俳優・船越英一郎)、「角梨枝子」、「田村高廣」(阪東妻三郎の長男。俳優の田村正和、俳優の田村亮の兄であり、田村兄弟の長男である。異母弟に俳優の水上保広がいる)、「川畑愛光」、「仲村隆」、「浜村純」、「吉葉千郎」、「川島真二」、「響令子」、他。

 

 

 ・1977年「泥だらけの純情」「山口百恵」と「三浦友和」の主演コンビの6作目として製作された作品。監督は富本壮吉。9億8500万円の配給収入を記録、1977年(昭和52年)の邦画配給収入ランキングの第7位となった。

 

* キャスト:「山口百恵」、「三浦友和」、「西村晃」、「大坂志郎」、「若杉透」、「石橋蓮司」、「泉じゅん」、「清水理絵」、「島本すみ」(現・島本須美)、「緑魔子」、「永島暎子」、「早川雄三」、「神山勝」、「内田良平」、「加藤治子」、「有島一郎」、「原知佐子」(夫は映画監督:「実相寺昭雄」)。

 

 

 テレビ作品・監督・演出

 

 

「東京警備指令 ザ・ガードマン」及び「ザ・ガードマン」シリーズ内の数話を監督。・1965年~1971年

 

* キャスト・ 「宇津井健」、「 藤巻潤」、「 川津祐介」、「 倉石功」、「稲葉義男」、 「中条静夫」、「 神山繁」、「清水将夫」、他。

 

 

「風の中のあいつ」時代劇ドラマ全26話の内の数話を監督。・1973~1974年

 

* キャスト・ 「萩原健一」 、「前田吟」、「下條アトム」、「安田道代」、「星由里子」、「宮下順子」、「大口広司」、「矢野間啓二」、「竜崎勝」、「小松政夫」、「下川辰平」、「長門裕之」、「米倉斉加年」 、他。

 

 

『白い牙』「藤岡弘」主演のアクションドラマ。全26回の内数話を監督。・1974年

 

* キャスト・「藤岡弘」、「川津祐介」、「藤巻潤」、「ジェリー藤尾」、「島かおり」、「鳥居恵子」、「松川勉」、「長谷川美雪」、「伴淳三郎」、「岡崎徹」、「古川義範」、「幸田宗丸」、「河津清三郎」、「佐藤慶」、他。

 

 

「夜明けの刑事」全111話の内数話を監督。・1974年

 

* キャスト・「坂上二郎」、「石橋正次」、 「鈴木ヒロミツ」、 「藤木敬士」、「石立鉄男」、「 水谷豊」、 「山本伸吾」、「神山繁」、「 佐藤允」、「 長山藍子」、「風間祐子」、「車だん吉」、「中島茂樹」、「宇津井健」、他。 

 

 

「赤い迷路」赤いシリーズ第1弾、平均視聴率18.9% 、最高視聴率 22.7%。・1974年~1975年

 

* キャスト・「山口百恵」、「松田優作」、「宇津井健」、「小山明子」、他。

 

 

「TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿」全35話の内数話を監督。・1975年

 

* キャスト・「篠田三郎」、「高岡健二」、「植木等」、「近石真介」、「土田早苗」、「大石悟郎」、「真夏竜」、「木島進介」、「坂口俊介」、「島村美輝」、「ジュディ・オング」、「高橋悦史」、「大坂志郎」、「森大河」、「真木恭介」、「牧美智子」、「竹脇無我」、その他。

 

 

「新・二人の事件簿 暁に駆ける」「TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿」の続編、数話を監督。・1976年

 

* キャスト・「篠田三郎」、「高岡健二」、「高橋悦史」、「土田早苗」、「アグネス・チャン」、「植木等」、「竹脇無我」、「芦田伸介」、「園佳也子」、「近石真介」、「毒蝮三太夫」、「大石悟郎」、「牧美智子」、「森大河」、「吉田友紀」、他。

 

 

「赤い運命」テレビドラマ、赤いシリーズ第3弾。平均視聴率 23.6%、最高視聴率 27.7%。・1976年

 

* キャスト・「宇津井健」、「山口百恵」、「岸田今日子」、「秋野暢子」、「三國連太郎」、「前田吟」、「南條豊」、「木内みどり」、「犬塚弘」、「大石悟郎」、「星美智子」、「佐々木孝丸」、「佐竹明夫」、「志村喬」、「上村拓也」、「池部良」、「有馬稲子」、他。

 

 

「赤い絆」テレビドラマ、赤いシリーズ」第6弾。平均視聴率29.5%、最高視聴率は32.4%を記録した。・1977年~1978年

 

* キャスト・「山口百恵」、「国広富之」、「岡まゆみ」、「真屋順子」、「大石悟郎」、「小夜福子」、「宮口精二」、「山本百合子」、「夏夕介」、「城達也」、「左幸子」、他。

 

 

「白い荒野」・1977年~1978年

 

* キャスト・「田宮二郎」、「野際陽子」、「岡江久美子」、「長門裕之」、他。

 

 

「迷路荘の惨劇」企画:「角川春樹事務所、毎日放送」 横溝正史の小説を映像作品化したものです。「金田一耕助シリーズ」の一つ。・1978年

 

* キャスト・「古谷一行」、「 三橋達也」、「 浜木綿子」、「 千石規子」、他。

 

 

「松本清張の時間の習俗」・1982年

 

* キャスト・「萩原健一」、「井川比佐志」、「中谷一郎」、「藤真利子」、「山口いづみ」、他。

 

 

「うちの嫁さんどっちむいてプイ!」・1982年

 

* キャスト・「市毛良枝」 「前田吟」 「乙羽信子」 「賀原夏子」 「坂上とし恵」 「井田弘樹」 「吉行和子」 「柳生博」「大嶋一郎」「佐野大輔」「中井貴恵」「谷隼人」「松村達雄」「生田悦子」「小松政夫」「上田美恵」「船越栄一郎」、他。

 

 

 

「松本清張の事故」・1982年

 

* キャスト・「山口崇」、「松原智恵子」、「宮下順子」、「中尾彬」、「伊佐山ひろ子」、「江幡高志」、「本郷直樹」、「河原裕昌」、他。

 

 

「松本清張の熱い空気 家政婦は見た!夫婦の秘密「焦げた」視聴率27.7%。・1983年

 

* キャスト・「市原悦子」、「 野村昭子」、「 石井富子」、「 野中マリ子」、「 今井和子」、「 山田スミ子」、他。

 

 

「松本清張の黒い画集・紐」 ・1985年

 

* キャスト・「浅丘ルリ子」、「近藤正臣」、「佐藤允」、「井川比佐志」、「丘さとみ」、「小林昭二」、「真山知子」、「丹波義隆」、他。

 

 

「松本清張サスペンス・六畳の生涯」・1987年 第25回ギャラクシー賞奨励賞受賞作品。視聴率25.4%

 

* キャスト・「植木等」、「志井田望子」、「ちあきなおみ」、「吉倉トミ」、「宮下順子」、「久富千鶴子」、「中島ゆたか」、「加藤嘉」、「工藤堅太郎」、「清水章吾」、「大塚周夫」、他。

 

 

「松本清張サスペンス・潜在光景」・1988年

 

* キャスト・「水谷豊」、「大谷直子」、「藤田三保子」、「加藤盛大」、「加地健太郎」、「中平良夫」、「深谷みさお」、他。

 

 

 

 以上、簡単ではありますが、「富本壮吉」の略歴でございました。

 

 

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 さて、続いては「富本壮吉」の幼馴染で親友の「堤清二・つつみせいじ」(作家名:辻井喬・つじいたかし)さんについてです。

 

 尚、今回のブログの内容を書こうと思ったきっかけは、参考文献として購入した、堤清二(辻井喬)さんが書いた「終わりなき祝祭」という作品を読んだことがきっかけです。

 この「終わりなき祝祭」という作品には、「富本壮吉」の両親、つまりは、青踏の女・尾竹一枝(冨本一枝)と人間国宝・富本憲吉のことが壮吉を含んだ家族の物語として描かれています。

 

 「尾竹家」について調べを進めて行くと、まるで神様がシナリオを書いたかのような運命の糸や、奇跡の出会いと物語が見えてきます。

 おそらくは、私の話の中に登場する人物たち自身にも見えていなかったであろう複雑に絡み合った運命の糸が、このブログを読む皆さんの目にも、もしかすると見えてくるかも知れません。

 

 私がこうして書いている「尾竹家」のことも、私の作り話や、嘘だと思う方がいらっしゃるかも知れませんが、確認できる資料を調べてみると事実であることが、皆さんにもお分かりいただけるのではないかと思います。

 (現在、執筆中の「尾竹三兄弟・評伝」には、私を含めた系図を人物相関図として載せる予定です)

 

 さて、少しばかり話が逸れてしまいましたが、堤清二さんの載せておきたいと思います。

 

 

「堤 清二」(つつみ せいじ)、1927年(昭和2年)3月30日 ~2013年(平成25年)11月25日)

 

 日本の実業家、小説家、詩人。筆名は辻井 喬(つじい たかし)。

 西武グループの創業者「堤康次郎」と、康次郎の妾(後に本妻)・青山操の間に生まれる。

 学位は博士(経済学)(中央大学・1996年)。日本芸術院会員、財団法人セゾン文化財団理事長、社団法人日本文藝家協会副理事長、社団法人日本ペンクラブ理事、『歴程』同人、憲法再生フォーラム共同代表、日本中国文化交流協会会長。西武鉄道取締役、京浜急行電鉄社外取締役、西武流通グループ代表、セゾングループ代表などを歴任した。異母弟は元西武鉄道会長の「堤義明」

 

 国立学園小学校、東京府立第十中学校(現東京都立西高等学校)を経て成城高等学校 (旧制)(現成城大学)に進学すると、寺内大吉に兄事し、後に「近代説話」の同人となる。東京大学経済学部入学直後、同級生だった氏家齊一郎などから勧誘を受け日本共産党に入党。横瀬郁夫のペンネームで積極的な活動を行っていた。

 

 1951年東京大学経済学部卒業。その後、肺結核の療養を経て、衆議院議長だった父・康次郎の秘書を務める。この頃から詩を書き始める。

 1954年に西武百貨店に入社。1955年から取締役店長として百貨店を任される一方、母体企業の西武鉄道でも取締役を務めた。同年、処女詩集『不確かな朝』を発表。1961年刊行の詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞受賞。
 1964年、康次郎が死去。周囲からは清二が継承すると思われていた西武グループ総帥の座は、異母弟の堤義明が継ぐことになる。

 

 ・ 「堤清二」は、作家の「三島由紀夫」とも交友を持ち、三島が自身の組織した「楯の会」の制服を制作するにあたっては、五十嵐九十九(ドゴールの制服のデザイナー)を手配するなどの便宜を図った。

 なお、1970年(昭和45年)11月25日の三島事件直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供した他、三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も貢献し続けた。
 

 政治家にはならなかったが、父康次郎が池田勇人と仲が良かったことから、池田や佐藤栄作、田中角栄、大平正芳ら政治家とも交流を続けた。特に白洲次郎から生前「宮澤喜一を総理にするのを手伝え」と言われていたため、宮澤内閣の誕生にも関わっている。

 

 ・ 「角川春樹」とは半世紀以上の親交を持ち、「角川春樹事務所」の顧問も務めた。

 

 康次郎死去後に一旦相続した義明から、改めて流通部門を渡された清二は、当時阪急百貨店会長・清水雅の宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ。スーパーマーケットである西友を急展開し、業績を拡大。1969年、池袋西武の隣にあった百貨店「東京丸物」(まるぶつ)を、買収したばかりの小佐野賢治から、さらに買収する形で経営を引き受け、府立十中の同級生だった増田通二を使い、パルコにリニューアルし、さらにパルコを全国に展開した。

 

 2000年には、小説『風の生涯』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞、詩の業績で藤村記念歴程賞受賞。2004年に『父の肖像』で野間文芸賞受賞。

 2006年3月には近作をはじめとする小説群の旺盛な創作活動により日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。2006年、詩集『鷲がいて』により現代詩花椿賞受賞。
 2006年、氏家が取締役会議長職を務めている日本テレビ放送網の社外取締役に就任。

 2007年、同作により読売文学賞詩歌俳句賞受賞。同年、日本芸術院会員となる。2009年、『自伝詩のためのエスキース』で現代詩人賞受賞。2012年、文化功労者。
「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた(辻井喬名義)。中華人民共和国と太いパイプを持ち、1973年から28回も訪中していた。
2013年11月25日、肝不全のため東京都内の病院にて86歳で死去。

 2014年2月の帝国ホテルでのお別れの会は実行委員長をドナルド・キーンと林野宏が務め、麻生太郎副総理や森喜朗元内閣総理大臣などが参列し、同年4月には偲ぶ会を日本中国文化交流協会が開き、加藤紘一や河野洋平らが出席した。

 

 詩集


「不確かな朝」(ユリイカ、1955年)
「異邦人」(ユリイカ、1961年)、第二回室生犀星詩人賞受賞
「宛名のない手紙」(紀伊国屋書店、1964年)
「辻井喬詩集」(思潮社、1967年)、のち現代詩文庫
「群青、わが黙示」(思潮社、1992年)、第23回高見順賞受賞
「時の駕車」(角川書店、1995年)
「呼び声の彼方」(思潮社、2001年)※友人でもあった作曲家・武満徹に捧げられた追悼詩集。
「鷲がいて」(思潮社、2006年)現代詩花椿賞・第58回読売文学賞詩歌俳句賞受賞
「自伝詩のためのエスキース」(思潮社、2008年)、第27回現代詩人賞受賞
「生光」(藤原書店、2011年)

 小説


「彷徨の季節の中で」 (新潮社、1969年/中公文庫、2009年) のち新潮文庫。※自伝的小説
「いつもと同じ春」 (河出書房新社、1983年) のち新潮文庫、中公文庫。第十二回平林たい子文学賞受賞
「暗夜遍歴」(新潮社、1987年)のち文庫、講談社文芸文庫。※自伝的小説
「けもの道は暗い」 (角川文庫、1989年) のち「変身譚」ハルキ文庫
「国境の終り 世の終りのための四章 」(福武書店、1990年)
「虹の岬」(中央公論社、1994年/中公文庫、1998年)第三十回谷崎潤一郎賞受賞。※歌人にして住友財閥重役 の川田順の恋愛事件を描き、映画化もされた。
「終わりなき祝祭」 (新潮社、1996年)のち文庫 。
「過ぎてゆく光景」(文藝春秋、1994年)

「風の生涯」(上・下)(新潮社、2000年) のち文庫。芸術選奨文部科学大臣賞受賞
「西行桜」 (岩波書店、2000年)
「命あまさず-小説石田波郷 」(角川春樹事務所、2000年)のち文庫。
「桃幻記」 (集英社、2003年)
「父の肖像」 (新潮社、2004年)

 

 

 以上、堤清二さんの略歴でございました。

 

 

 「富本壮吉」・「堤清二」(辻井喬)、二人の略歴紹介だけでも随分と長くなってしまいましたので、続きの本編は次回掲載させていただきます。

 

 尚、「富本壮吉」、「堤清二」共に関わりのある人物である「三島由紀夫」については、いずれ「家系」の別な人物の紹介とともにお話したいと思います。(しばらく先になるとは思いますが・・・)

 

 それでは、また次回、お会いいたしましょう。

 

2020年03月07日

音咲ヒカル blog No.7

 

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。ご観覧いただきありがとうございます。今回は前回の続きになります。

 

 

「富本壮吉」と「堤清二」(辻井喬)

 

 

 昭和のはじめにこの世に生を受けた「富本壮吉・とみもとそうきち」「堤清二・つつみせいじ」(作家名:辻井喬・つじいたかし)が知り合ったのは、日本がまだ他国と度々戦争を繰り返していた頃の事になります。

 都立第十中学校にて同級生だった二人は、お互いに自分の親の不和などについて悩みを持ち、それを語り合ううちに、心の距離を近づけ友情が芽生え仲良くなっていったようです。

 勿論、出会った当時は二人とも世の中のことを知るにはまだ幼い年齢ですから、お互いの家庭の親が、どのような人物なのかは正確には知らなかったということです。

 

 実際には「壮吉」の父は著名な陶芸家であり、後に人間国宝となる「富本憲吉」、母は「青踏」の女であり、女性解放運動の先駆者・指導者である「富本一枝」(尾竹一枝)。

 一方、「清二」の父は当時、不動産業を営み、派手な女性関係はありながらも、後に衆議院議長を務め、そしてあの「西武王国」、プリンスホテル、西武鉄道、コクドとして世に名を轟かせる事となる「堤家」の創始者となる「堤康次郎・つつみやすじろう」です。

 

 

 「堤清二」(辻井喬)が「富本憲吉」と「富本一枝」の生涯を「壮吉」の視点を借りながら綴った「終わりなき祝祭」というモデル小説を書いたのは、幼馴染であり親友である壮吉の夢を何らかの方法で「作品」として形にしてあげたいと考えたからと、「壮吉」という才能ある存在がいた事を世の中の人に知ってもらいたいという思いからだったようです。

 

 壮吉が終生、清二に語っていた夢とは、自身の両親である「富本憲吉」と「富本一枝」をモデルとした映像作品を作りたいというものでした。

 ですが両親をモデルにした、男と女の愛と憎しみを描いた作品を撮ることができないまま壮吉は病に倒れ、亡くなってしまいました。

 

 「終わりなき祝祭」の中での「壮吉」の言葉を借りるなら「フランス映画に、いろいろ男と女のことをテーマにした傑作があるけど、僕はもし一本自由に撮れるようになったら、おやじと母親のことを正面からじっくり映画にしてみたい。映画を創ることが、そのまま僕自身にとっての人生の発見に通じているような。(省略)(本文より抜粋)」

 壮吉の思い描いていた両親をモデルにした映画、それはまた男女の物語という意味だけではなく、壮吉自身の実存にも深く関係する意味合いを持っていたと思います。

 自身の抱える実存的な問題は、壮吉と清二に共通する感覚だったように思えます。特殊な家庭環境と境遇も相まって、二人には似ているところが多く見られるように思えます。

 

 そして壮吉の死後、堤清二(辻井喬)は壮吉が病床で書き綴っていた散文詩や、メモなどを読み、取材を進め小説「終わりなき祝祭」を書きます。

 

 「終わりなき祝祭」の内容に関してはここではあまり触れません。何故なら私がこの作品に対して一読者として客観的に読むことが出来ないからです。

 現在の私は「尾竹家」はもちろん、「富本家」やその他の「家」と、それらに関わる人々に関する資料を読んだり、取材を進めています。つまり私はモデル小説とはいえ、自分と地続きの身内の話としてしか「終わりなき祝祭」という作品を読むことができない状態にあるという事です。(読み終えてから、あまり時間が経っていないとう事も影響しています)

 

 実は私が現在執筆中の「尾竹三兄弟・評伝」を創作するうちに特別興味を惹かれたのが壮吉の母、「富本一枝」(尾竹一枝)でした。

 そして、「富本家」についてもかなり知ってしまった段階で、堤清二(辻井喬)さんが書いた「終わりなき祝祭」を読むことになってしまった訳です。

 そうすると自分の中でも色々と整理のつかないこともあって、作品に対して客観的に読むことが難しくなってしまったというのが正直なところです。

 

 ですから、「終わりなき祝祭」の内容に関する詳細ななコメントはこの場では極力控えさせて頂きたいと思います。 

 

 

 

 

 

 

 少しだけお伝えしておきたいのは、当たり前の事ですが「終わりなき祝祭」で描かれている作品の時代背景、つまりは、壮吉と清二の生きた時代背景と社会状況。そして壮吉の両親の生きた時代と社会状況はよく踏まえた上で読んでいただきたい作品だという事です。

 

 何と言っても現在の日本社会は劣化が進み、社会的な寛容さや、地域共同体の空洞化、人と人とのの関係性の希薄化、などもあり「終わりなき祝祭」で描かれているような世界観を理解することに難しさを覚える人も多いと思われるからです。

 

 「終わりなき祝祭」に描かれる人たちには人間関係における厚みがあります。愛情、憎しみ、友情、悲しみ、喜び、それらは現在の私たちが感受しているものとは少し違っているということです。

 数多くの登場人物たちと、「富本壮吉」と「堤清二」(辻井喬)の二人は、「天皇」が人間宣言をしていない時代に生まれています。

 ですから「戦争」、「敗戦」、そして「戦後」という流れと、その時の社会状況・背景を頭に入れて物語を読まないと上手く内容を理解することができないかと思います。

 

 「終わりなき祝祭」の中にも所々にそうした社会の変化が語られています。幾つかを本文より抜粋してご紹介させていただきます。

 

・ 「かなりの記録が、戦争を聖戦と信じ、天皇陛下のために死ぬことに誇りを持っていたからである。なかには一億玉砕を予想し、そのさきがけになれたことを幸福に思い、日本精神の大義に殉じて魂の復活を歌っているものもあった。」

 

・ 「学校を卒業して見れば、かつての熱心な革新派も、場合によっては革新的であったから尚のこと、権力主義者になり、世俗に塗れ、俗人になってしまう者が多いのを彼も知っていた。」

 

・ 「学生の頃は、党派性、革命家のモラルといった規範が彼を支えていた。しかし映画監督になって以後、思想性は後退し、彼には生来の潔癖感以外の物差しはなかった。(中略)かつては長所と評価されていた特徴が世の中の変化で古さに変わっているのかもしれないというふうに考えてみた。」            (本文より抜粋)

 

                                             以上。

 

 最初にご案内しまいたように「終わりなき祝祭」は、「富本憲吉」と「富本一枝」の生涯を「壮吉」の視点を借りながら綴った物語です。

 勿論、物語は富本憲吉と富本一枝(尾竹一枝)をモデルにした男と女の話として描かれていますが、実際には多重構造になっています。社会的な変化・価値観の変化などが登場人物たちの人生の流れとともに内面の変化としても描かれています。

 

 また「終わりなき祝祭」の作中にて、「富本壮吉」「富本一枝」「富本壮吉」はそれぞれに人生の幕を閉じて行きます。

 「終わりなき祝祭」という小説の作者である堤清二(辻井喬)は幼馴染であり、親友である「壮吉」の夢であった壮吉の両親をモデルとした作品を、亡くなった親友の想いに答えるように描きました。

 

 現在、私自身も「尾竹家」「富本家」の物語を亡くなった方々の想いに寄り添いながら創り上げている最中です。私はこの世に生まれてくるのが少し遅かったので「憲吉」さん、「一枝」さん、「壮吉」さん、「清二」さん、その他の方々にもお会いすることはできませんでしたが、この「終わりなき祝祭」を通して、私は登場する人たちの人生に、これまでよりもずっと深く触れられたような気がしています。

 そして先人たちから自分に託されたものは何なのかを、改めて考えるきっかけにもなりました。

 

 

 このブログを読んでくださっている皆様の中で興味のある方は、「終わりなき祝祭」をご覧になってみてはいかがでしょうか。

 

 

* 最後に「堤家」について詳しく知りたいという方は、「ミカドの肖像」(著・猪瀬直樹)をお読みなることをお勧めしておきます。

 これもまた偶然か、必然か分かりませんが、私が「壮吉」さんと「清二」さんの関係を知る前にたまたま買っていた本になります。別な人物について調べる為に猪瀬直樹さんの本を何冊か買っていたものの中の一冊が偶然にも「ミカドの肖像」でした。

 

 

 

 

 

 

それでは、また次回。

2020年03月30日

音咲ヒカル blog No.8

 

 

 

 

 ご観覧いただきまして、ありがとうございます。音咲ヒカルです。今回は「富本家」と交流のあった「有島武郎」(ありしまたけお)、「有島家」についてのお話をさせて頂きます。

 本来であれば、このお話は前々回の「富本壮吉」の略歴欄の所に短いエピソードを編集して書き足す予定のものでしたが、思っていたよりも文章量が多くなったので、「有島武郎」単体としてお話しておいた方が良いと判断しました。ですから今回は「有島武郎」のお話を単体にて掲載したいと思います。

 

 掲載予定が伸びております「富本一枝」「富本憲吉」については、次回に書かせて頂きます。ご了承くださいませ。

 

 

 それでは、先ずは「有島武郎」の略歴を紹介いたします。 

 

 

 

 

 「有島武郎」(ありしまたけお)1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。 

 学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年(明治36年)に渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、「志賀直哉」「武者小路実篤」らとともに同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で婦人公論の記者だった「波多野秋子」と心中した。

 

 19歳で学習院中等全科を卒業する。その後、札幌農学校に入学。教授の「新渡戸稲造」から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという。「内村鑑三」「森本厚吉」の影響を受ける。米国ではハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒し「ホイットマン」や「イプセン」らの西欧文学、「ベルクソン」、「ニーチェ」などの西洋哲学の影響を受ける。

 

* 尚、「有島武郎」の心中死の後、師であった「内村鑑三」は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明しています。

 


 長男・行光(ゆきみつ)は、俳優の「森雅之」(もりまさゆき)。


代表作に「カインの末裔」「或る女」や、評論「惜しみなく愛は奪ふ」がある。

 

 東京・小石川(現・文京区)に旧薩摩藩郷士で、大蔵官僚・実業家の「有島武」(ありしまたけし)の長男として「有島武郎」は生まれる。母は「幸子」。祖父・「宇兵衛」も同じく郷士であった。

 

 

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 「有島武郎」の父「有島武」は薩摩藩の郷士・「有島宇兵衛」と妻・「曾与」の長男として、現在の鹿児島県川内市平佐で生まれた。

 大蔵省少書記官、横浜税関長、国債局長、関税局長など財務官僚として活躍。1893年、大蔵大臣の渡辺国武と対立して退官した後、実業界入りし、京都鉄道会社、日本鉄道会社、山陽鉄道、第十五国立銀行などで取締役を務めた。

 1903年、東京市会議員に当選して1905年まで議員を務めた。1916年、胃がんにより死去、享年75。従三位勲一等に叙せられる。

 園田孝吉の妹。寺島宗則の妻の妹。南部藩留守居役・加島七五郎(山内英邦)と今井静(久留米藩今井九一郎娘)の娘・幸と三度の結婚をしている。

 

 「有島武郎」の父である「有島武」には息子で作家の「有島武郎」、同じく作家の「里見弴」(さとみとん)、芸術家の「有島生馬」(ありしまいくま)。孫に俳優の「森雅之」(もりまさゆき)、曾孫に女優の「中島葵」(なかじまあおい)がいる。

 

 

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 「有島武郎」「富本一枝」(尾竹一枝)の出会い。

 

 

 「有島武郎」「富本憲吉」「富本一枝」(尾竹一枝)が結婚後に住んでいた安堵村の冨本家を訪ねて来たのは、大正8年の5月の事です。

 憲吉と一枝の二人とも以前から「白樺」(しらかば)の同人の方たちとの交流があり、「有島武郎」もその中の一人だったようです。

 憲吉は「白樺」の表紙を描いていましたし、「有島武郎」の弟「有島生馬」(ありしまいくま)も「白樺」で、憲吉、一枝とは知り合いでした。

 また一枝は「有島武郎」の推薦にて「解放」「海の沙」に文章を寄せています。

 

 「有島武郎」の日記には富本家の家族に歓迎された事と、一枝から、一枝の妹である三井(みつい)の悲しい話(失恋)を聞いたことが書かれている。(三井は、「尾竹越堂」の三女ですが、幼くして「浅井家」に養女にもらわれているため、「尾竹姓」ではなく「浅井姓」となっています)

 実際、一枝の妹・「浅井三井」(あさいみつい)と「有島武郎」は、この時すでに親しい間柄でした。ですから一枝から聞くまでもなく、有島は三井の叶わなかった恋についてすでに知っていたはずです。

 

 おそらく一枝は、可愛いがっていた清純な妹・三井と有島の二人に恋人として、お付き合いして欲しかったのではないかと思います。

 何故なら有島が富本家を訪れる前に、一枝は三井から有島に関する話を一通り聞いていたからです。

 有島の日記や、三井の残していた有島との手紙から推測すると、三井は失恋に傷つき沈み込んだ自分を、優しく励ましてくれる有島に好意を持っていたし、有島は二十歳程も年の差のある三井に対する自分の思いがどういうものなのか、整理がつかないままに三井と手紙のやり取りをしたり、家族ぐるみの親しい付き合いをしていたように思います。

 

 結局、三井は日本画家「野口謙次郎」(のぐちけんじろう)と結婚し、有島は三井に、「結婚してからも今まで通り心おきなく来て欲しいのが家族みんなの願いです」と三井の結婚に賛成する手紙を送り。その5ヵ月後に婦人公論の記者であった「波多野秋子」(はたのあきこ)とともに軽井沢の別荘にて縊死(いし)心中し、亡くなってしまいます。

 

 「有島武郎」の死を悲しむ三井、涙を流す妹の三井を慰める一枝。特に付き合いと想いの深かった三井は「有島武郎」の死の悲しみを乗り越えるのにはかなりの時間を要した事が察せられます。

 

 

 * 下記画像・同人「白樺」 

 

 

 

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 *「冨本壮吉」と「森雅之」(有島武郎の長男)について。

 

 「森雅之」は1911年に「有島武郎」と、陸軍大将・男爵「神尾光臣」の娘でもある母「安子」のもとに、長男として生まれました。

 一方の「冨本壮吉」は1927年に、人間国宝・「富本憲吉」と青踏の女・「富本一枝」の間に生を受けました。

 

 「有島武郎」自身はもちろん、有島が生きていた時も、有島が亡くなった後も、おそらくは誰も自分たちの息子が後に映画・映像の世界で関わることになろうとは想像していなかった事でしょう。人の「縁」(えにし)とはそういうものです。

 有島の死から時は流れて、1950年の初めごろに映画制作会社「大映」に入社し、助監督を務めていた壮吉は映画「あにいもうと」(監督:成瀬巳喜男)で、有島の息子である雅之と初仕事をしています。

 その後、雅之自身の父である「有島武郎」の代表作の1つを映画化した作品「或る女」(監督:豊田四郎)にて、雅之と壮吉の二人は再度、役者と助監督として仕事を共にしています。

 

 

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 私は現在「尾竹家」に関する書籍を書いていますが、それぞれの登場人物たちの繋がりを見て行くと、偶然とは思えない不思議な巡り合わせを感じます。勿論、このブログを読んでいらっしゃる皆さんも、私がブログに載せている登場人物たちの「神業」とも言えるような「縁」(えにし)を何となくでも感じているかも知れません。

 人と人との「縁」が織りなす人生・物語は深淵で興味深いものです。それぞれの登場人物にも予測できないことだらけです。

 「尾竹三兄弟」に関しても、前回ご紹介した「富本壮吉」「堤清二」(辻井喬)も、今回ご紹介した「有島家」「富本家」も、次回ご紹介する「富本憲吉」「富本一枝」(尾竹一枝)も、何かとても大きな物語の中に存在していたように私には思えます。

 そしてまた、皆さんすでにお亡くなりになっていますが、その大きな物語はおそらくは現在も続いていると思っています。

 このブログをお読みの皆様の人生においても、そうした不思議な巡り合わせのようなもが大なり小なり、あるのではないでしょうか。

 そうした自分と関係する歴史を知ると、自分自身という存在も理解しやすくなります。歴史の中には必ず功罪ありますが、それも含めて自分を受け入れ認め愛することができれば、人としての器も大きくなのではないかと思います。

 

 それでは今回の最後に、全員ではありませんが登場人物たちの略歴などをまとめてご紹介して終わりにさせていただきたいと思います。略歴・画像はWikipediaより転載、抜粋(一部編集しています)

 

 ※ 尚、「白樺派」の方たちは、また機会を改めてご紹介させて頂きます。

 

 

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 *「森雅之」(もりまさゆき)、(1911年1月13日 - 1973年10月7日)は、北海道札幌郡上白石村(現在の札幌市白石区)生まれ、東京都出身の俳優。父は小説家の有島武郎。本名は有島 行光(ありしま ゆきみつ)。

 当初、映画出演に消極的だったが、1942年、31歳のとき、文学座が提携出演した東宝作品「母の地図」で映画デビューを果たす。松竹映画「安城家の舞踏会」の没落華族の長男役で注目され、本格的に映画界に進出。

 

 1950年代を中心に・「溝口健二」監督作「雨月物語」や・「黒澤明」監督作「羅生門」「成瀬巳喜男」監督作「浮雲」などの作品で知的でニヒルな二枚目を演じ、演技派のトップスターとして活躍した。また、出演映画が米国アカデミー賞と世界3大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)のすべてで受賞しており、4冠を達成しています。

 

 演劇界では、1950年代以降はフリーの立場で文学座などの新劇の舞台に立ち、新劇の枠をこえて劇団新派や東宝現代劇などの芝居にも積極的に出演した。

 * 主な演劇出演作:「三島由紀夫」の戯曲「鹿鳴館」「三島由紀夫」最後の戯曲「癩王のテラス」「泉鏡花」「歌行燈」「尾崎紅葉」「金色夜叉」「樋口一葉」「智恵子抄」「武者小路実篤」「七福神」「アレクサンドル・デュマ」「椿姫」「アントン・チェーホフ」「三人姉妹」「ウィリアム・シェイクスピア」「オセロー」など多数。

 

 

 「虎の尾を踏む男達」「續姿三四郎」「羅生門」「白痴」『悪い奴ほどよく眠る」など、黒澤明の映画作品に欠かせない演技派二枚目俳優でもあった。三船敏郎と共演する場合は対照的な役柄を演じることが多く、野性味豊かな演技の「動の三船敏郎」に対し、堅実で理知的な演技の「静の森雅之」と呼ばれることもあった。

 

 

 * 青春ドラマの名わき役で知られる「森川正太」は、著書「売れない役者 あなたの知らない芸能界サバイバル」の中で、駆け出しの若手の頃、あるドラマの撮影中、スタジオの前で何時間も待たされ、イライラが募り「俺を何時間待たせるんだ!!」と周りに当たりちらしていたところ、同じように出番を待っていた年配の役者に「役者は待つのも仕事の内だから」とやさしく諭されたことがあると記している。

 スタジオ入りすると、普段は現場に顔を出さないようなテレビ局の重役や監督、現場の撮影スタッフから、その年配の役者が最上級の扱いを受けている様子を不思議に思い、帰宅後、母親に事の顛末を話し、キャストの名前が記載されたシナリオを見せたところ、そこには「森雅之」の名前があり、母親は不世出の名優の前でさらした息子の悪態に絶句してしまったというエピソードもある。

 

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 *「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)1862年9月1日(文久2年8月8日~ 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行う。 国際連盟事務次長も務め、著書「武士道」は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

 キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから「矢内原忠雄」、「高木八尺」、「南原繁」、「宇佐美毅」、「前田多門」、「藤井武」、「塚本虎二」、「河井道」などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。
 非常に交流の幅が広い人物で、著作の一つ「偉人群像」には、「伊藤博文」や「桂太郎」、「乃木希典」らなどとのエピソードも書かれている。
 「エリザ・ルアマー・シドモア」(アメリカの著作家・写真家・地理学者。ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事)ら、日本研究で訪日した外国人とも深い交流がある。

 

 

 ※ 追記 2020年6月24日: ちなみにですが、「新渡戸稲造」の著書「帰雅の蘆」弘道館、明治40年発行の挿絵は尾竹三兄弟の末弟である「尾竹国観」が挿絵を書いています。下記の絵がそれになります。

 何度も言っておりますように、取材をしたり、古い資料を調べていると自分が現在描いている作品に登場する人物たちも、当時意識していなかっであろう見えない運命の糸が浮かび上がってきます。「神業」のような「縁」(えにし)の連続です。

 

 

 

 

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 *「内村鑑三」(うちむらかんぞう)万延2年2月13日(1861年3月23日)- 昭和5年(1930年)3月28日[1])は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者。

 

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 *「里美弴」(さとみとん)、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名は山内英夫(やまのうち ひでお)といった。

 「有島武郎」の父「有島武」と妻「幸子」の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。

 「志賀直哉」「武者小路実篤」らが創刊した雑誌「白樺』に2人の兄と共に同人として参加した。1919年には「吉井勇」「久米正雄」らと雑誌「人間」を創刊した。

 1932年(昭和7年)より6年間、明治大学文芸科教授を務めた。

 1945年(昭和20年)、「川端康成」らと鎌倉文庫創設に参加、

 1947年(昭和22年)、日本芸術院会員となる。

 「小津安二郎」監督とも親しく小津と組んでいくつかの映画の製作にもかかわった。1958年(昭和33年)の「彼岸花」は小津と「野田高梧」の依頼を受け、映画化のために書き下ろしたものである。四男の「山内静夫」は松竹の映画プロデューサーであり、この映画の製作も務めた。

 

 家族」: 同じく小説家の「有島武郎」、画家の「有島生馬」は共に実兄にあたる。
 姉の「有島愛」は旧三笠ホテル経営者の「山本直良」と結婚、山本直良と愛との三男が作曲家で指揮者の「山本直忠」であり、直忠の長男が同じく作曲家で指揮者の「山本直純」であり、直純の長男が同じく作曲家の「山本純ノ介」である。

 また直良と愛の息子の山本直正は、「与謝野鉄幹」「与謝野晶子」夫妻の二女の「与謝野七瀬」と結婚した。俳優の「森雅之」は長兄・有島武郎の息子なので、甥にあたる。
 山本まさとの間に、長女「夏絵」(生後間もなく死去)、長男「洋一」、次男「鉞郎」(東宝勤務)、次女「瑠璃子」、三男「湘三」、四男「静夫」をもうけた。元赤坂芸妓の「菊龍」(遠藤喜久、お良)を愛人にした。

 

 

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 *「有島生馬」(ありしまいくま)、1882年(明治15年)11月26日 - 1974年(昭和49年)9月15日)は、神奈川県横浜市出身の日本の画家。 「有島武郎」の弟であり、「里見弴」の兄。

 妻の「信子」「原田熊雄」の妹でドイツとのクォーター。妹のシマは医学者の「高木喜寛」に嫁いだ。甥には武郎の長男である俳優の「森雅之」がおり、1923年(大正12年)に武郎が心中した後は彼の親代わりとなって育てた。姪には高木喜寛・シマ夫妻の長女・「園子」がおり、西洋古典学者の「呉茂一」に嫁いだ。

 

 志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、「白樺」創刊に参加し、代表作「蝙蝠の如く」を書いた。父親が由比ヶ浜に別荘を持っていたことから、「吉田清成」「吉原重俊」「山尾庸三」「園田孝吉」らといった官僚の子供たちと親しく交流した。

 

 1907年(明治40年)2月末からパリの美術学校グラン・ショミエールに通いはじめる。パリでは「荻原守衛」「高村光太郎」「南薫造」「梅原龍三郎」「藤田嗣治」らとも交流した。

 。1921年(大正10年)画家「西村伊作」や歌人「与謝野晶子」、画家「石井柏亭」らによって当時の学校令に縛られない自由でより創造的な学校、文化学院が創立される。生馬も講師として教壇に立った。(教え子に「村井正誠」がいる。)

 1928年(昭和3年)娘・「暁子」「原智恵子」らと渡欧し、フランスでレジオンドヌール勲章授与。

 1935年(昭和10年) 帝国美術院会員となる。

 同年、日本ペンクラブ(会長・「島崎藤村」)の副会長になる。

 1936年(昭和11年) 「安井曽太郎」らとともに一水会設立に参画。 1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる。

 1958年(昭和33年) 日展常務理事に就任。1964年(昭和39年) 文化功労者となる。1971年(昭和46年)

 娘・「暁子」「昭和天皇皇后」ヨーロッパ歴訪に同行し通訳を務める。 1974年(昭和49年)91歳で死去。

 

 

 1982年(昭和57年)、「有島生馬の鎌倉の家」(通称「松の屋敷」)が長野市信州新町上条に移築され、「有島生馬記念館」として開館された。

 

 

 *「有島生馬」画像掲載なし。

 

 

 

 

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                    「有島武郎」

 

 「有島武郎」が初めて安堵村の「富本家」を訪れたのは1919年の5月1日のことでした。それから101年が経った今日、2020年5月1日に私が今回の記事を書けたことを嬉しく思います。そしてその事が何か少しでも「有島武郎」さんと、その「ご家族」、「関係者」、「縁者」の皆様のお役に立てたなら幸いです。

 

                                            音咲ヒカル

 

 最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。きっと、天界にて「有島武郎」さんも喜んでいることでしょう。 それでは、また次回。

 

2020年05月01日

音咲ヒカル blog No.9

 

 ご観覧いただきまして、ありがとうございます。みなさん今晩は、音咲ヒカルです。今回は予定していました通り、青踏の女・「富本一枝」(尾竹一枝)と人間国宝・「富本憲吉」について色々とお話をしてみたいと思います。長いので2回に分けてお話をしたいと思います。

 

 私が一枝さんの存在を初めて知ったのは、尾竹三兄弟に関するある資料を読んだ時でした。その時はまだ私自身、尾竹三兄弟についての知識もほとんどなく、尾竹兄弟がどのような人物で、どんな絵を描いていたのかもよく分からない頃の事です。

 尾竹兄弟の幾つかの絵と、岡倉天心、横山大観と衝突・決裂した文展事件の顛末などが書かれた文章の後に、少しだけ富本一枝(尾竹一枝)に関する文章が載っていました。

 

 「青踏」の女「尾竹紅吉」こと(尾竹一枝)、後の「富本一枝」は、尾竹三兄弟の長男である「尾竹越堂」の娘(長女)です。

 10代にして、新しい女、天才少女画家として注目を集めていた一枝、第12回・選画会に出展した作品「陶器」が金賞なしで、*「橋本関雪」(はしもとかんせつ)と並んで「銅賞」を獲得した。次の年に出展した「枇杷の実」は「褒状一等」でしたが、橋本関雪よりも遥かに高額な値段で、「枇杷の実」は買われています。

 

 尾竹一枝(富本一枝)は画家、詩人、作家、書家、編集者としての才能を持ち、他者のために尽くす人でもありました。スキャンダラスな一面が強調されがちですが、実像はそうではなく、一枝さんによって一家、財をなした人は多いのです。

 十分な才能と、知的好奇心を持ち、鋭い感性と美的センスをその内面に宿した一枝さんは、私の目から見ても非常に魅力的な存在として映ります。

 

 

 青踏社を退社した後、一枝は文芸演劇雑誌「番紅花」(さふらん)を創刊します。

 この「番紅花」で表紙絵などを描いてもらおうと以前から知っていた富本憲吉に依頼をするところから、一枝と憲吉の距離が近づき、二人の本格的な恋が始まります。

 

 

 また「番紅花」創刊にあたって、一枝は「森鴎外」に寄稿依頼をします。森鴎外は陸軍省の自身の部屋を訪ねて来た一枝の事を日記に書き残しています。そして多忙にもかかわらず「番紅花」への協力を約束してくれました。

 そして文芸演劇雑誌「番紅花」の創刊を祝って、「サフラン」を寄せてくれています。

 

 不思議なことですが、一枝が陸軍省に森鴎外を訪ねて行った時、同伴者として一緒に*神近市子(かみちかいちこ)も居ましたが、鴎外は神近市子の事は日記に書き記していません。鴎外が一枝に何かを強く感じていたことは間違いなく、そうでなければ「番紅花」に自身の作「サフラン」を寄せることもなかったように思います。

 一枝さんの人を惹きつける力の話は数多く残されていますが、森鴎外との出会いもそうした出会いの一つであると私は思っています。

 

 

 

 

 

 

 「略歴」 「富本一枝・とみもとかずえ」(尾竹一枝) 筆名「尾竹紅吉」 (1893年 - 1966年)、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。

 夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。

 同人雑誌「青踏」*「平塚らいてう」に惹かれて、明治45年(1912年)に「青鞜に入社する。紅吉を名のり、随筆や詩の執筆、表紙絵を担当する等、積極的に活動。

 平塚らいてうとの同性愛関係や、「五色の酒事件」、「吉原登楼事件」などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。

 

 青踏を退社後、大正3年(1914年)に、*森鷗外(もりおうがい)らの支援を受け、純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を自ら主宰し創刊する。

 同年に富本憲吉と結婚。共同で陶芸を制作する他、富本一枝の名で文芸活動を行う。憲吉との間には1男2女を儲けますが、思想的にも、芸術的にも、妥協を許さない二人の間には次第に溝が生じてしまい、離婚こそしませんでしたが、昭和21年(1945年)に別居することになります。

 戦後は書店を経営し、『暮しの手帖』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として暮しの手帖社から出版されています。

 

 

 

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* 「平塚らいてう」(ひらつからいてう)本名・平塚 明(ひらつか はる)、1886年〈明治19年〉 - 1971年〈昭和46年〉は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後にわたって活動した女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。

 日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒、同大学は2005年に平塚らいてう賞を創設した。

 

 大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった。

 しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。

 

 

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* 「神近市子」(かみちかいちこ) 1888年 - 1981年は、長崎県出身の日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。
 戦後は一時期政治家に転身し、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。

 津田女子英学塾卒。在学中に「青鞜社」に参加する。青森県立女学校の教師ののち、東京日日新聞の記者となった。
 1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人の伊藤野枝に心を移したことから神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。<日蔭茶屋事件>
 

 戦後、市子は民主婦人協会、自由人権協会設立に参加する。
第1回参議院議員通常選挙では全国区で落選したが、第26回衆議院議員総選挙に旧東京5区で左派社会党より出馬して当選した。連続当選は3回。1957年の売春防止法成立にも尽力した。

 

 

 

 

 

 

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* 「橋本 関雪」(はしもと かんせつ)1883年(明治16年)- 1945年(昭和20年)、日本画家。画像は関雪本人です。

 

 父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年(大正2年)文展で二等賞、特選を受賞。帝展審査員。帝室技芸員にも選ばれている。帝国美術院。帝国芸術院会員。

 1940年(昭和15年)、建仁寺の襖絵を製作する。

 

 京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。

 庭を営むことが多く大津に走井居、明石に蟹紅鱸白荘、宝塚に冬花庵という別邸を造営した。また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。

 

 

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* 「森鴎外」(もりおうがい) <文久2年>・1862年 - 1922年〈大正11年〉。

 日本の明治・大正期の文豪、小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。

 

 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表。

 日清戦争出征などにより一時期創作活動から遠ざかった時期もありますが、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。

 乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」などを執筆。
 晩年には、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。

 

 最晩年の森鴎外は宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。しかし「帝諡考」(ていしこう)は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見い出した吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の「元号考」(げんごうこう)の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。

 

 

 

 

 

 ※ 「森鴎外」の文豪としての素晴らしさが、よく分からないという人も多いかも知れませんが、森鴎外の作品は今現在もなおその輝きを失うことなく、眩いばかりの神々しさを放ち、多くの人々を魅了し続けています。     

「三島由紀夫」も自身の著書「作家論」において、鴎外文学の「美」について、三島由紀夫自身の鴎外への想いと共に語っています。

 

 以下、「作家論」著・三島由紀夫より抜粋。

 

 ー 鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な槍のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。

 現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向かって進むものだからだ。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。 -

 

 

 これは私の推測ですが、三島さんは鴎外の文豪としての才能だけでなく、他の仕事の部分も含めて見ていたのではないかと思います。特に森鴎外が宮内省図書頭となり、生涯最後の仕事とした「帝諡考」(ていしこう)、「元号考」(げんごうこう)を完成させたことの意味。鴎外の意図に三島さんは気付いていのではないかと、私は思っています。この件に関してはまた別な機会にでも、書きたいと思います。

 

 ★ 尚、森鴎外=「森家」と「尾竹家」の詳しい解説は書籍にて書かせて頂きます。森鴎外が一枝さんに感じた何かは、その後の「運命」「縁(えにし)」だったことが分かります。

 簡単に言えば森鴎外がこの世を去った後に「森家」と「尾竹家」は、「森家」の類(るい)と一枝の姉妹である福美の娘・美穂(みほ)の結婚により親戚関係になります。

 森鴎外も、一枝さんも、お互いにもしかしたら出会った瞬間に胸中に何かを予感していたのかも知れませんね。 詳細は「尾竹三兄弟・評伝」にて書かせていただきます。

 

「森鷗外・関連動画へのリンク」

 

森鷗外と北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさしんのう)輪王寺宮・東武天皇に関する動画へのリンクです。

森鷗外と輪王寺宮の話は動画後半、台湾で神となった真相のところで語られています。

 

https://youtu.be/4Z36yID1lxA?si=fIXthNC3f2DUaABW

 

また動画内では武者小路穣の名も出て来ます。尾竹家・森家・武者小路家の繋がりを知る方なら不思議な縁が見えて来るのではないかと思います。

 

 

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 * 「三島由紀夫」(みしまゆきお) 本名・平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年〈大正14年〉 - 1970年〈昭和45年〉は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。

 

 戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。

 

 代表作は小説に「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鏡子の家」「憂国」「豊饒の海」など、戯曲に「近代能楽集」「鹿鳴館」「サド侯爵夫人」などがある。

 

 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。

 バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 才能が才能を呼ぶのか、単なる偶然なのか、それとももっと大きな意思や力が働いているのか、このブログに登場する人物たちは皆、天意とも思えるような縁(えにし)によって、出会い、関わり合い、影響し合っているように、私には見えています。執筆中の著書には、これまでの尾竹家関連の本にはない新しい内容も含まれています。

 尾竹三兄弟の画業に焦点を当てた作品ではありますが、そのもう一つ先の疑問として、そもそも尾竹家とは何なのか?、という私の個人的な疑問の答えを、私なりの視点と解釈にて著書には呈示したいと思います。

 

 不思議ですよね。日本画壇から抹殺された尾竹兄弟の絵が、どうして今もって完全に日本画壇史の闇に葬り去られていないのか? 完全に抹殺・抹消されていない理由は何なのか? 画力があるから。当時人気があったから。そんな凡庸な理由だけではない何かがあるような気がして、私は調べを進めています。

 勿論、私が書く作品なので内容はかなり衝撃的なものになっています。これまでの尾竹家関連の本とは破壊力が違いますので、その辺は期待していて頂きたいと思います。

 

 世の中の状況的に発売は延期・予定は未定の状態ですが、その分内容は充実した作品になっています。

 まだまだ、執筆作業中なので仕上がりまで気は抜けませんが、皆さんの期待以上のものをお見せできると思いますので、楽しみにしていて下さい。

 

 

 

 次回の主役は、人間国宝・「富本憲吉」(とみもとけんきち)、「富本一枝」(尾竹一枝)の旦那様のお話です。

それでは、また次回。

 

 

 

2020年07月31日

音咲ヒカル blog No.10

 

 

 

 

 

 ご観覧頂きましてありがとうございます。今回は「富本一枝の」旦那様。日本近代陶芸の巨匠「冨本憲吉」のお話になります。

 

「富本 憲吉」(とみもと けんきち)、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)・日本の陶芸家。「人間国宝」「文化勲章受章者」。長男は映画監督・テレビ演出者の「富本壮吉」。妻は青踏の女、日本画家・「尾竹越堂」の長女である「冨本一枝」(尾竹一枝)。長女は「冨本陽」。次女は「冨本陶」

 

 奈良の「法隆寺」から1キロ半ほど東南の大和国生駒郡安堵村が冨本憲吉の生誕地です。「冨本家」は少なくとも江戸時代から続く此の土地の大地主でした。徳川時代・元禄のころには冨本家の年貢米は1400石位あり、これは村全体の9割に相当していたそうです。

また憲吉幼い頃から、は地域と結び付きの強かった法隆寺に深い親近感を感じていたそうです。

 

 憲吉は幼くして父を亡くしており、幼くして「冨本家」の家督を譲り受けていました。憲吉が *「ウィリアム・モリスの工芸思想に影響を受けた事は有名な話ですが、そのきっかけは憲吉が群山中学校に入ってから知り合った友人にあります。

 憲吉が中学時代に知り合った友人、「嶋中雄作」は後に「中央公論」の社長を務めます。嶋中自身は憲吉とは別な中学校に通っていましたので、二人がどのように出会ったのかは不明ですが、憲吉は自身の回想でその事に触れています。

 

 「嶋中がしょっちゅうそういう「ウィリアム・モリス」の事を研究していたし、私も中学時代に「平民新聞」なんか読んでいた」

 憲吉は中学時代に嶋中の影響もあって「平民新聞」に掲載されていたモリスの紹介記事や、翻訳の記事を読み、「美術家にして詩人なり」と紹介されていたモリスという存在を知り、興味を持ったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 1908年(明治41年)、憲吉はモリスの実際の仕事に触れたいという目的を持って、美術学校の卒業前にロンドンへ私費留学をしています。(留学中に卒業)。

 憲吉は「ヴィクトリア&アルバート美術館」に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品に触れます。またロンドンで「建築家・新家孝正」と出会い、写真助手としてインドを巡っています。

 実家からの帰国命令が届いたため1910年(明治43年)に帰国。清水組(現・清水建設)に入社するが、ほどなく退社。

 憲吉は1912年(明治45年)「美術新報」「ウイリアム・モリスの話」を発表しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウィリアム・モリス」(William Morris、 1834年3月24日 - 1896年10月3日)は、19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれています。

また、架空の中世的世界を舞台にした『世界のかなたの森』など多くのロマンスを創作し、モダン・ファンタジーの父と目される。「ロード・ダンセイニ」「R・R・トールキン」など多くの人たちに影響を与えた。

 

 

 

 

 

 

 モリスは産業革命以前の中世に憧れて、モリス商会(Morris & Co.)を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなったといわれる。

 プロレタリアートを解放し、生活を芸術化するために、根本的に社会を変えることが不可欠だと考えたモリスはマルクス主義を熱烈に信奉し、「E. B. バックス」「エリノア・マルクス」(カール・マルクスの娘)らと行動をともにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 1910年、日本に帰国した憲吉は二人の友人、「バーナード・リーチ」「南薫造」(みなみくんぞう)と知り合い親密な交流を持つようになり、同人誌「白樺」の人たちとも交流を深めます。

憲吉はそうした才能ある友人たちとの交流を続けながら、展覧会などへ作品を出品したりもしていましたが、自分自身の芸術家・陶芸家としての道に関してはまだ暗中模索の状態だったようです。

 

 

「冨本憲吉」「尾竹一枝」との出逢い。

 二人の出逢いのきっかけは「青踏社」にまだ一枝が在籍していた時になります。「平塚らいてう」から、「青踏」の表紙絵を書くようにと一枝に声がかけられた事に始まります。

そしてその時、一枝の脳裏によぎったのは同人誌「白樺」で偶然読んでいた「南薫造」「冨本憲吉」の往復書簡でした。

 ただ不思議なことですが、憲吉はこの掲載されていた往復書簡には名前を載せていません。名もなき人物に直感で白羽の矢を立てる所に一枝さんの才能・センスが見て取れると私は思います。

 

 一枝さんに南薫造の往復書簡の相手が冨本憲吉という人物であると教えたのはおそらく「武者小路実篤」だと推測されています。(尾竹紅吉伝・参照)

 

 一枝はその後すぐに憲吉に面会を求め大和安堵村に足を運んでいます。そしてその後も二人は手紙のやり取りを続けます。憲吉は初対面の一枝に惹かれて、かなり想いの籠った手紙を書いて送っていますが、一枝の方はこの時期は平塚らいてうにひたすらだった為に、憲吉の想いは一枝に届かず終わってしまいます。

 

 ですが、再び二人を運命は強く結び付けようとします。一枝自らが創刊した文芸演劇雑誌「番紅花」(さふらん)がそのきっかけとなります。

 

 1912年の暮れに一枝は「番紅花」の表紙絵についての相談を憲吉にしています。そうして憲吉の展覧会に一枝が足を運ぶ機会が増え、一枝が憲吉の住む奈良に行くことも多くなって行きました。

 

 憲吉はいつしか深い意味で一枝のことを大切な人と認識するようになり、一枝の方も自然とそれを受け入れるようになります。そして機は熟して、1914年の10月「冨本憲吉」「富本一枝」(尾竹一枝)は結婚をします。

 

 

 

 

 

 

 

「冨本憲吉」「バーナード・リーチ」

 

 

 その生涯において良き友人であった憲吉とリーチ、当時、日本の近代工芸を新しく切り開いた二人。リーチは憲吉の事をトミーと呼んでいたようです。

 出会った当初、駆け出しの頃の二人は一緒に仕事をする事もあり、リーチが夢中になっていあた楽焼、木版画、などは勿論。憲吉がリーチより学んだエッチング、テンペラ画、織、刺繡、木彫などの様々な工芸を手掛け展覧会に出品していました。

 

 憲吉が一枝と結婚し、東京を引き払い奈良の安堵村に移ったのは1915年の3月です。その安堵村の冨本家においても、リーチ、同人「白樺」の人たちとの交流は継続されます。

 ただこの時の憲吉は陶器の道に入って間もない時期で、製陶の技術レベルを向上させるためにありとあらゆる実験を繰り返しながら、独自の技術を編み出して行く過程にありました。

 憲吉と一枝の間に子供も生まれて、芸術的才能に恵まれた若い夫婦にとっては一筋縄では行かない事も多かった事が伺えます。勿論それと同時に得難い幸福感も十分にあったと推測されます。

 

 

 リーチが憲吉によって芸術的な発見をしたことも多かったと思いますが、憲吉もリーチとの交流により発見したことが多くありました。

 特筆すべき1つの例は、憲吉が自身のオリジナリティに意識的になるきっかけがリーチの影響で始めた楽焼造りです。

 リーチの影響で楽焼を始めてみたものの憲吉が作る作品はどれも、自分のオリジナルのデザインではなく、過去に何処かで見たことのある作品や雑誌などに掲載されている図版の残像が見て取れるものばかりでした。

 そこで憲吉はリーチと語り合い、議論し、自分自身で考え抜いた結果として辿り着いた答えは「模倣より模様を作るべからず」という金言です。

 憲吉は、他人の過去の模倣、他人の過去の模様の陳列品のごとき骨董は、工芸家には不要であると考えました。他人の過去の作品を手本にしない。他人の過去の作品を模倣しない。そのことを憲吉は肝に銘じていたということです。

 要するに憲吉は、他人の過去の作品を模倣して、何となくのオリジナリティを表現して満足するような甘い道を選ばず、憲吉独自の全く新しい模様を形にして生み出すという、芸術家としては最高レベルの難易度に挑戦する道を選んだという事です。

 

 そして、それを自分自身の生涯を通して極め続けた訳ですから、凄まじい芸術家魂を持った人だと思いますし、芸術家として、工芸家、陶芸家として、真に美しく素晴らしい方だったと思います。

 

 これは私の個人的な想いですが、そんな素敵な憲吉さんが一枝さんの、旦那様であった事が私としては二人の間に色々とあったにせよとても嬉しく思います。

 

 

 さて、お互いに影響を与え合いながら交流を重ねていた憲吉とリーチですが、1920年6月に英国に帰国することになります。大きな理由は本国からの後援者からの招きがあった事、三人の子供たちの教育のためという事情もあり、リーチは日本での11年間の生活にピリオドを打つ事を決めたようです。勿論、憲吉にとっては寂しい出来事です。

 

 憲吉とリーチは再会の約束を交わして別れますが、その後は互いに多忙の波に飲まれて交流は疎遠になって行きます。ですがお互いに自分自身が信じたそれぞれの道に真っ直ぐに進んで行くという姿勢は崩す事なく同時代を、憲吉は日本で、リーチは英国で自身の才能を発揮し続けます。

 

 そして時は流れ、1927年4月、憲吉と一枝は奈良の安堵村から再び東京(祖師谷)に戻ります。陶芸家・冨本憲吉が世の中に才能を認められ中央工芸界の中枢へと上りつめていく事になる東京時代です。

 「冨本サロン」とも言われる新居は憲吉と一枝の娘たち(陽と陶の長女、次女)が通う成城学園からさほど遠くない小高い丘の上に建てられました。また長男の壮吉も誕生し家族5人での生活の始まっていました。

 

 憲吉が陶芸家として不動の地位を築いた東京時代。世界的な陶芸家として飛躍する東京時代。憲吉は長い間のたゆまぬ努力を実らせ、他の追随を許さない確固たる美を創り上げます。

 そしてそれと同時に憲吉の公的な地位も高まって行きます。

 

 「国画会」「聖徳太子奉賛展の鑑査」「帝国美術学校(現・武蔵野美大)の教授」「帝国美術院会員」「新文展での審査員」「紀元2600年奉祝美術展委員」「東京美術学校(現・芸大)教授」「日展の審査員」などを歴任します。

 

 そうした多忙の中、ロンドンでリーチとの合同展なども行われていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「バーナード・リーチ」(Bernard Howell Leach、1887年1月5日 - 1979年5月6日)は、イギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問し、白樺派や民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館の設立にあたり、柳宗悦に協力した。

1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年、に国際交流基金賞を受賞している。1977年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館はリーチの大規模回顧展を開いたが、リーチはその2年後の1979年にセント・アイブスで死去した。

リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、リーチやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

 

 

 

 

 

 

 

 

冨本憲吉・富本一枝の話に関しましては語りたい事はまだまだ沢山ありますが、今回のところはこれにて終了とさせて頂きます。また機会がありましたら何処かで書かせて頂きたいと思っています。

それでは今回はこの辺で終わりになります。

また次回、お会い致しましょう。

 

 

2021年10月18日