音咲ヒカル blog No.3

 

 

 

 

 ご観覧いただきありがとうございます。音咲ヒカルです。今回も引き続き私の家筋、「尾竹家」のお話しになります。これまでも解説してきた通り、尾竹三兄弟は日本画壇史から抹消されてしまっていますが、その実力は紛れもなく本物です。

 それは当時、尾竹三兄弟の画力を認めていた文化人、交流のあった才人たちの三兄弟に向けられた言葉を聞いて頂ければお分かりいただけるのではないかと思います。才能のある芸術家、文学者、知識人などが認めていた尾竹三兄弟の才能を今回も少しではありますが、お話させて頂きたいと思います。

 


 それから、まずは誤解のないように、みなさんにお伝えしておきますが、私は何も画壇から追放された尾竹兄弟の屈辱を晴らしたいとか、当時の画壇の闇を暴きたいとかいう思いから、こうした事を書いている訳ではありません。もちろん、画壇においての衝突劇や、追放劇の内幕は知って頂きたいですし、それと共に尾竹兄弟の作品の素晴らしさ、画業。当時、尾竹兄弟と同じく追放や落選の憂き目に合った方々の作品と画業にも目を向けて頂きたいという思いはあります。ですが、どちらが悪で、どちらが正義かとか、公に白黒決着をつけたいとかいった気持ちはありません。


 尾竹兄弟はもちろん。当時、活躍していた画家たち、その交友関係の人物相関図を振り返れば、もの凄い才能と個性を備えた人たちが群雄割拠していた時代であったことは言うまでもありません。ですから、そうした激しい時代の中で互いに、例え内幕や内心がどうであれ切磋琢磨し合い、それぞれの道を歩み、人生を全うしたということで全て良しではないかと、私個人としては思っています。


 当然、尾竹兄弟をはじめお亡くなりの皆様方、各人それぞれに色々な想いはあると思います。ですがそうした過去の記憶もすでに浄化され、何もかもが美しい浮世と現世の淡い夢へと姿を変えているのではないでしょうか。私はそうであることを願いますし、祈っております。そして、もちろんですが、是非とも、皆様方には尾竹兄弟の画業を再評価して頂きたいと思っております。


 そして、これはまた非常に個人的な想いになりますが、私がこうして尾竹兄弟の画業を広めることで、養女としてこの家系に招かれた母を大人になるまで、何不十なく大切に育ててくれた事への恩返しになれば良いなとも思っています。
 また、それは即ち私がこの家系に招かれたということも同時に意味しています。そしてまたそれは、私がここでこうしてみなさんに色々なことをお伝えしていることにも繋がっています。

 

 日本は去る者は日々に疎しで、血縁主義ではなく、家筋主義です。家筋・家徳を守るためにそれに相応しいと思われる人物が天の計らいによって、その家に必要とされ招かれるといことも珍しい事ではないということです。例えば「長尾家」から「上杉家」へと招かれた戦国の名将・軍神として知られる「上杉謙信」のように・・・。

 

 少し意味深になってしまいましたが、いずれもう少し詳しくお話しする機会が来ましたら、また改めてお話しさせていただきたいと思います。

 

 

 

 

 それでは、そろそろ本題に入って行きたいと思います。当時、日本の美術界、芸術界において、様々な波紋を起こした尾竹兄弟ですが、その才能は間違いなく本物でした。画力が本物であるからこそ、周囲の画家たちに、その才能に恐れや様々な念を抱かれてしまったということです。


 尾竹竹坡の死後に刊行された「竹坡遺芳」によると、岡倉天心の盟友であった*高橋太華、東京美術学校・第五代校長、*正木直彦、そして同時代に活躍した川谷玉堂、*安田靫彦、*鏑木清方らの全員が異口同音に、岡倉天心の先見した「これは天才のひとりだ」という感想に同感している。もちろん、この「竹坡遺芳」にてコメントしている画家だけでなく、それ以外の多くの芸術家も尾竹竹坡だけでなく、他の尾竹兄弟に対しても、その才能を認めていました。
 尚、*高橋太華、*石井研堂、*幸田露伴らが、執筆陣に加わっていた「少国民」誌に15~17歳時の尾竹国観が挿絵を描いていました。そして、その挿絵に心動かされていたのが、熱心な「少国民」の読者だった鏑木清方です。
 
 現在は日本画壇から抹消されてしまっていますが。尾竹兄弟の画家としての才能・力量が本物であったという事実は真実であり揺るぎのないものです。
 それは岡倉天心と衝突し、玉成会を退会した後の尾竹兄弟の活躍を振り返れば一目瞭然です。玉成会を抜けた後、文部省美術展覧会に尾竹国観は「油断」という作品を出品します。新聞の絵図評は好意的なもので、国観の画力はもちろん、画面の調和・構成力を褒めるものでした。


 また「油断」に高評価を表したのは英国・ロンドンタイムズの記者であった。英国新聞の絵図評は「油断」について最長の記事を載せています。江戸期の浮世絵との関連で国観作をながめ、女の表情の描出法に興味を惹かれると書いています。
 当時、尾竹国観の「油断」に付けられた売値は1200円。そして、同時期頃に発表されていた横山大観の「流燈」の売値は500円でした。その差は歴然なのです。尾竹国観が胸に秘めていたように、自分よりも画力の劣る者(横山大観等々)に審査員だからと言って自分の絵の評価をされるというのは、本末転倒に感じてしまうのは当然のことにも思えます。自分の画力をきちんと推し量れる物差し、力量を備えてから審査していただきたい、というのは実はもの凄く当たり前の意見です


 そしてまた、審査員の評価は曖昧であってはならないということも、国観はよく言っています。つまり、どこをどのように直せば良いのかを的確に説明できなくてはならないということです。そうでなくては評価した画家に、「では、どのように描けば良かったのか」を問われた時に曖昧な返答しかできないからです。
 評価した画家に対して的確に駄目だったところを説明できなくては審査員の力量を疑われるのは当然のことです。審査員としての力量はないが、政治的な地位があなたよりも上だから審査をしているというのはいかがなものか。納得しかねる部分がある、というふうに国観は思っていたようです。
 さて、その後、政治的に尾竹兄弟が画壇から追放され抹消されてしまったことで、現在では両者の絵の知名度、その他の評価など色々と逆転されてしまっている訳ですが、政治力とは本当に恐ろしいものだと思います。


 ちなみに、明治時代のお金の価値での1200円がどのくらいのものかというと、公務員の初任給50円、教員・お巡りさんだと月のお給料8~9円、ベテランの大工さん、工場の技術者で月のお給料20円、明治時代の1円は今の3000円~3800円の価値に相当しており、消費者物価指数から考えると1円は現在の2万円くらいの価値があったのではないかと言われています。そうした、貨幣価値を踏まえて考えてみますと、国観の作品「油断」に付いた1200円はとんでもない金額だということが、お分かりいただけるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 さて、日本画壇より追放・抹消されたといわれる尾竹兄弟ですが、玉成会を退会する際の岡倉天心の尾竹兄弟に対する残留を促す行動発言や、後に文部省から国観に打診のあった美術学校の教職への招きという事例からは、追放した側と追放された側、もしくは当時の様々な関係者を含め、両者の間でおそらく、何度となく和解の機会があったのだろうと推測できます。


 過ぎた日々を水に流して、そうした誘いに応じる道もあったのだとは思いますが、国観は誘いにはなびきませんでした。おそらくは向こう側から差し出された報酬や地位の回復、名誉の回復を受け入れるとするならば、国観自身や尾竹兄弟が玉成会を退会することを選択したこと自体が無意味な行為であったことになってしまうからです。


 自らの意に反するとして玉成会を退会しておきながら、政治的に追い込まれたからと言ってそれを受け入れるならば、結局は追い込まれれば損得勘定で動く人間であるということを認めるということに他なりません。私が思うに国観は自分はそうした損得勘定で自身の芸術観・精神性を絶対に曲げたりはしないという意思表示として、そうした和解には乗らなかったのだと思います。


 当然、向こうが自らの過ちを認め尾竹兄弟の正義を公に認めたなら話は別だったような気はしますが、それ以外の安易な和解話しなどは、国観は受け入れる気にはなれなかったのだと思います。


 私は個人的に国観、尾竹兄弟の自らの意志を曲げないという姿勢、自らの意思を貫いて人生を全うした姿はとても美しく素晴らしいものだと思っています。


 これがもし、尾竹兄弟が浅ましく損得勘定で動くような人物であったなら、やっぱりちょっと残念に思ってしまうような気がいたします。そうではなくて本当に良かったと私は個人的に思います。そして名誉挽回は今後、私を含め尾竹兄弟の画業、日本文化を次の世代に伝えて行きたいと思っている人たちが、行っていけばいいことだと思っています。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 



 * 「高橋太華」(たかはし・たいか): 文久3年(1863年)福島県生まれ。児童文学者、小説家、編集者。師、そして強力なパトロンとして生涯に渡って尾竹兄弟の心の支えとなった人物。1900年、岡倉天心に日本美術院に招かれ、特別賛助員として「日本美術」誌の編集などに関わっている。

 ※ 写真掲載なし。

 



 * 「正木直彦」(まさき・なおひこ): 文久2年(1862年)大阪堺市生まれ。明治から、昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で東京美術学校(現・東京藝術大学)の第5代校長。

 

 * 「安田靫彦」(やすだ・ゆきひこ): 明治17年(1884年)東京生まれ。日本画家、能書家。横山大観、菱田春草、小堀鞆音らの作品に感動し画業を決意した。*前田青邨と並ぶ歴史画の大家。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。初代中村吉右エ門とは同年で親しく、実兄に五代目中村七三郎がいる。文化勲章受章。昭和53年死去。

 

 * 「前田青邨」(まえだ・せいそん):明治18年(1885年)岐阜県中津川市生まれ。日本画家。大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。妻は荻江節の5代目、荻江露友(おぎえ・ろゆう)。朝日文化賞受賞。中津川市名誉市民。文化勲章受章。川合玉堂の後を継いで、*香淳皇后(こうじゅんこうごう)の絵の指導役となる。皇居長和殿「石橋の間」に謹作した壁画「石橋」を加筆。ローマ法王庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシャ夫人像」を完成。昭和52年、死去。

 

 

 



 * 「香淳皇后」(こうじゅんこうごう)明治36年(1903年)~平成12年。久邇宮家出身。「昭和天皇」の皇后。今上天皇の実母。*久邇宮邦彦王(くにのみや・くによしおう)の第1女子。皇太子妃美智子の立后に伴い皇太后となる。皇后となる以前の身位は女王。

 

 

 

 * 「久邇宮邦彦王」(くにのみや・くによしおう)1873年~1929年(明治6年~昭和4年)。日本の皇族。陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。

 日本の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子。通称に中川宮(なかがわのみや)他多数。諱もたびたび改名している。北朝第3代崇光天皇の男系15世子孫。
 久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇后)の父。上皇は孫。今上天皇・秋篠宮文仁親王・黒田清子は曾孫。



 


 * 「鏑木清方」(かぶらき・きよかた)明治11年(1878年)~昭和47年。東京生まれ。日本画家。浮世絵師。近代日本の美人画家として*上村松園の門下より出た*伊東深水と並び称せられる画家。父は条野採菊(じょうの・さいぎく)。青年期に泉鏡花と知り合い泉鏡花の作品の挿絵も書いている。清方の門人は数多くいて、歌舞伎役者 3代目 尾上多賀之丞(さんだいめ・おのえ・たがのじょう)も入門していた。尚、雑誌「小国民」の読者であった鏑木清方がほぼ同年代の尾竹国観に対抗意識を燃やす姿は、鏑木清方の自伝「こしかたの記」に記録されています。文化勲章受章。

 

 * 「上村松園」(うえむら・しょうえん)明治8年(1875年)~昭和24年。京都生まれ。日本画家。女性として初めての文化勲章受章者。真・善・美の極致に達した本格的な美人画を念願として女性を描き続けた。

 

 * 「伊藤深水」(いとう・しんすい)明治31年(1898年)~昭和47年。東京生まれ。浮世絵師。日本画家。版画家。実娘は女優・タレント・歌手の(故)朝丘雪路。

 

 

 * 「石井研堂」(いしい・けんどう)慶応元年(1865年)~昭和18年。福島県郡山生まれ。執筆家、編集者、民間文化史家、高橋太華、幸田露伴と同じく雑誌「小国民」の主要執筆者。

 ※ 写真掲載なし。

 

 


 * 「幸田露伴」(こうだ・ろはん)慶応3年(1867年)~昭和22年。東京生まれ。小説家。帝国学士院会員。帝国藝術院会員。第1回文化勲章受章。東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。「尾崎紅葉」や「上田萬年」、「狩野亨吉」らと同級生であった。

 娘の幸田文(こうだ・あや)も随筆家・小説家。高木卓(たかぎ・たく)小説家、ドイツ文学者、音楽評論家、の伯父。作品に「五重塔」、「運命」などがある。*尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。

 

 * 「尾崎紅葉」(おざき・こうよう)慶応3年(1868年)~明治36年。東京生まれ。小説家。*山田美妙らと硯友社を設立し我楽多文庫を発刊。作品に伽羅枕、多情多恨、金色夜叉などがある。門下生に*泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋聲がいる。俳人といしても角田竹冷らとともに、秋声会を興し*正岡子規と並んで新派と称された。

 

 

 * 「山田美妙」(やまだ・びみょう)慶応4年(1868年)~明治43年。東京生まれ。小説家、詩人、評論家。友人の尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと文学結社「硯友社」を結成。徳富蘇峰(とくとみ・そほう)らが組織した「文学会」にも参加。華族・公爵・第3代貴族院議長・第7代学習院院長である近衛篤麿(このえ・あつまろ)を会長として結成されていた「東洋青年会」との交流から、フィリピン独立運動家のマリアーノ・ポンセ来日時に東洋青年会を訪問。村上浪六の支援を受け「大辞典」を刊行。「新体詩選」「白玉蘭」「女装の探偵」など作品多数。


* 「泉鏡花」(いずみ・きょうか)明治6年(1873年)~昭和14年。石川県金沢市生まれ。小説家。戯曲、俳句も手がける。尾崎紅葉の門下生の一人。帝国芸術院会員。昭和48年泉鏡花文学賞制定。平成11年泉鏡花記念館開館。「高野聖」「夜行巡査」「乱菊」「鬼の角」「黒猫」「夜叉ケ池」「天守物語」「草迷宮」「海神別荘」など作品多数。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 



 さて、それではそろそろ今回のブログも終わりとなります。現在は色々と忙しい日々を送っていますが、私個人としては今後も、自由に自分の能力を生かして楽しく生きて行きたいと思っています。


 現在準備中の作品を仕上げる事と、尾竹兄弟の画業は勿論、日本の文化・芸術の素晴らしを広めて行く事が自身の活動のメインテーマになっています。


 精神性を含めた質の高い文化・芸術の素晴らしさを多くの方々に伝え広めて行くこと、そこから皆さんに、様々な気付きを得ていただければ幸いだと思っています。そして本物の美意識を持った人が増えれば自然と世の中良くなって行くのではないかとも思っています。

 質の高い本物の文化・芸術、美の力というものは、社会にも、人々にもとても大きなエネルギーを与えてくれます。様々な分野を活性化させる力を秘めていると思います。また人間関係においても美意識はとても重要だと、私は思っています。そうした身近な事も含めて、質の高い文化・芸術を深く広めて行きたいと、思っております。

 

 そして、理想としては、地球という惑星に創られた地球文明が、人間、動物、自然、宇宙それぞれとの調和を保てるような文明へと成熟して行って欲しいと願っております。それでは、また次回。お会いいたしましょう。

 

 

 

2019年10月10日