音咲ヒカル blog No.10

 

 

 

 

 

 ご観覧頂きましてありがとうございます。今回は「富本一枝の」旦那様。日本近代陶芸の巨匠「冨本憲吉」のお話になります。

 

「富本 憲吉」(とみもと けんきち)、1886年(明治19年)6月5日 - 1963年(昭和38年)6月8日)・日本の陶芸家。「人間国宝」「文化勲章受章者」。長男は映画監督・テレビ演出者の「富本壮吉」。妻は青踏の女、日本画家・「尾竹越堂」の長女である「冨本一枝」(尾竹一枝)。長女は「冨本陽」。次女は「冨本陶」

 

 奈良の「法隆寺」から1キロ半ほど東南の大和国生駒郡安堵村が冨本憲吉の生誕地です。「冨本家」は少なくとも江戸時代から続く此の土地の大地主でした。徳川時代・元禄のころには冨本家の年貢米は1400石位あり、これは村全体の9割に相当していたそうです。

また憲吉幼い頃から、は地域と結び付きの強かった法隆寺に深い親近感を感じていたそうです。

 

 憲吉は幼くして父を亡くしており、幼くして「冨本家」の家督を譲り受けていました。憲吉が *「ウィリアム・モリスの工芸思想に影響を受けた事は有名な話ですが、そのきっかけは憲吉が群山中学校に入ってから知り合った友人にあります。

 憲吉が中学時代に知り合った友人、「嶋中雄作」は後に「中央公論」の社長を務めます。嶋中自身は憲吉とは別な中学校に通っていましたので、二人がどのように出会ったのかは不明ですが、憲吉は自身の回想でその事に触れています。

 

 「嶋中がしょっちゅうそういう「ウィリアム・モリス」の事を研究していたし、私も中学時代に「平民新聞」なんか読んでいた」

 憲吉は中学時代に嶋中の影響もあって「平民新聞」に掲載されていたモリスの紹介記事や、翻訳の記事を読み、「美術家にして詩人なり」と紹介されていたモリスという存在を知り、興味を持ったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 1908年(明治41年)、憲吉はモリスの実際の仕事に触れたいという目的を持って、美術学校の卒業前にロンドンへ私費留学をしています。(留学中に卒業)。

 憲吉は「ヴィクトリア&アルバート美術館」に日参し、アーツ・アンド・クラフツの作品に触れます。またロンドンで「建築家・新家孝正」と出会い、写真助手としてインドを巡っています。

 実家からの帰国命令が届いたため1910年(明治43年)に帰国。清水組(現・清水建設)に入社するが、ほどなく退社。

 憲吉は1912年(明治45年)「美術新報」「ウイリアム・モリスの話」を発表しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウィリアム・モリス」(William Morris、 1834年3月24日 - 1896年10月3日)は、19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれています。

また、架空の中世的世界を舞台にした『世界のかなたの森』など多くのロマンスを創作し、モダン・ファンタジーの父と目される。「ロード・ダンセイニ」「R・R・トールキン」など多くの人たちに影響を与えた。

 

 

 

 

 

 

 モリスは産業革命以前の中世に憧れて、モリス商会(Morris & Co.)を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなったといわれる。

 プロレタリアートを解放し、生活を芸術化するために、根本的に社会を変えることが不可欠だと考えたモリスはマルクス主義を熱烈に信奉し、「E. B. バックス」「エリノア・マルクス」(カール・マルクスの娘)らと行動をともにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 1910年、日本に帰国した憲吉は二人の友人、「バーナード・リーチ」「南薫造」(みなみくんぞう)と知り合い親密な交流を持つようになり、同人誌「白樺」の人たちとも交流を深めます。

憲吉はそうした才能ある友人たちとの交流を続けながら、展覧会などへ作品を出品したりもしていましたが、自分自身の芸術家・陶芸家としての道に関してはまだ暗中模索の状態だったようです。

 

 

「冨本憲吉」「尾竹一枝」との出逢い。

 二人の出逢いのきっかけは「青踏社」にまだ一枝が在籍していた時になります。「平塚らいてう」から、「青踏」の表紙絵を書くようにと一枝に声がかけられた事に始まります。

そしてその時、一枝の脳裏によぎったのは同人誌「白樺」で偶然読んでいた「南薫造」「冨本憲吉」の往復書簡でした。

 ただ不思議なことですが、憲吉はこの掲載されていた往復書簡には名前を載せていません。名もなき人物に直感で白羽の矢を立てる所に一枝さんの才能・センスが見て取れると私は思います。

 

 一枝さんに南薫造の往復書簡の相手が冨本憲吉という人物であると教えたのはおそらく「武者小路実篤」だと推測されています。(尾竹紅吉伝・参照)

 

 一枝はその後すぐに憲吉に面会を求め大和安堵村に足を運んでいます。そしてその後も二人は手紙のやり取りを続けます。憲吉は初対面の一枝に惹かれて、かなり想いの籠った手紙を書いて送っていますが、一枝の方はこの時期は平塚らいてうにひたすらだった為に、憲吉の想いは一枝に届かず終わってしまいます。

 

 ですが、再び二人を運命は強く結び付けようとします。一枝自らが創刊した文芸演劇雑誌「番紅花」(さふらん)がそのきっかけとなります。

 

 1912年の暮れに一枝は「番紅花」の表紙絵についての相談を憲吉にしています。そうして憲吉の展覧会に一枝が足を運ぶ機会が増え、一枝が憲吉の住む奈良に行くことも多くなって行きました。

 

 憲吉はいつしか深い意味で一枝のことを大切な人と認識するようになり、一枝の方も自然とそれを受け入れるようになります。そして機は熟して、1914年の10月「冨本憲吉」「富本一枝」(尾竹一枝)は結婚をします。

 

 

 

 

 

 

 

「冨本憲吉」「バーナード・リーチ」

 

 

 その生涯において良き友人であった憲吉とリーチ、当時、日本の近代工芸を新しく切り開いた二人。リーチは憲吉の事をトミーと呼んでいたようです。

 出会った当初、駆け出しの頃の二人は一緒に仕事をする事もあり、リーチが夢中になっていあた楽焼、木版画、などは勿論。憲吉がリーチより学んだエッチング、テンペラ画、織、刺繡、木彫などの様々な工芸を手掛け展覧会に出品していました。

 

 憲吉が一枝と結婚し、東京を引き払い奈良の安堵村に移ったのは1915年の3月です。その安堵村の冨本家においても、リーチ、同人「白樺」の人たちとの交流は継続されます。

 ただこの時の憲吉は陶器の道に入って間もない時期で、製陶の技術レベルを向上させるためにありとあらゆる実験を繰り返しながら、独自の技術を編み出して行く過程にありました。

 憲吉と一枝の間に子供も生まれて、芸術的才能に恵まれた若い夫婦にとっては一筋縄では行かない事も多かった事が伺えます。勿論それと同時に得難い幸福感も十分にあったと推測されます。

 

 

 リーチが憲吉によって芸術的な発見をしたことも多かったと思いますが、憲吉もリーチとの交流により発見したことが多くありました。

 特筆すべき1つの例は、憲吉が自身のオリジナリティに意識的になるきっかけがリーチの影響で始めた楽焼造りです。

 リーチの影響で楽焼を始めてみたものの憲吉が作る作品はどれも、自分のオリジナルのデザインではなく、過去に何処かで見たことのある作品や雑誌などに掲載されている図版の残像が見て取れるものばかりでした。

 そこで憲吉はリーチと語り合い、議論し、自分自身で考え抜いた結果として辿り着いた答えは「模倣より模様を作るべからず」という金言です。

 憲吉は、他人の過去の模倣、他人の過去の模様の陳列品のごとき骨董は、工芸家には不要であると考えました。他人の過去の作品を手本にしない。他人の過去の作品を模倣しない。そのことを憲吉は肝に銘じていたということです。

 要するに憲吉は、他人の過去の作品を模倣して、何となくのオリジナリティを表現して満足するような甘い道を選ばず、憲吉独自の全く新しい模様を形にして生み出すという、芸術家としては最高レベルの難易度に挑戦する道を選んだという事です。

 

 そして、それを自分自身の生涯を通して極め続けた訳ですから、凄まじい芸術家魂を持った人だと思いますし、芸術家として、工芸家、陶芸家として、真に美しく素晴らしい方だったと思います。

 

 これは私の個人的な想いですが、そんな素敵な憲吉さんが一枝さんの、旦那様であった事が私としては二人の間に色々とあったにせよとても嬉しく思います。

 

 

 さて、お互いに影響を与え合いながら交流を重ねていた憲吉とリーチですが、1920年6月に英国に帰国することになります。大きな理由は本国からの後援者からの招きがあった事、三人の子供たちの教育のためという事情もあり、リーチは日本での11年間の生活にピリオドを打つ事を決めたようです。勿論、憲吉にとっては寂しい出来事です。

 

 憲吉とリーチは再会の約束を交わして別れますが、その後は互いに多忙の波に飲まれて交流は疎遠になって行きます。ですがお互いに自分自身が信じたそれぞれの道に真っ直ぐに進んで行くという姿勢は崩す事なく同時代を、憲吉は日本で、リーチは英国で自身の才能を発揮し続けます。

 

 そして時は流れ、1927年4月、憲吉と一枝は奈良の安堵村から再び東京(祖師谷)に戻ります。陶芸家・冨本憲吉が世の中に才能を認められ中央工芸界の中枢へと上りつめていく事になる東京時代です。

 「冨本サロン」とも言われる新居は憲吉と一枝の娘たち(陽と陶の長女、次女)が通う成城学園からさほど遠くない小高い丘の上に建てられました。また長男の壮吉も誕生し家族5人での生活の始まっていました。

 

 憲吉が陶芸家として不動の地位を築いた東京時代。世界的な陶芸家として飛躍する東京時代。憲吉は長い間のたゆまぬ努力を実らせ、他の追随を許さない確固たる美を創り上げます。

 そしてそれと同時に憲吉の公的な地位も高まって行きます。

 

 「国画会」「聖徳太子奉賛展の鑑査」「帝国美術学校(現・武蔵野美大)の教授」「帝国美術院会員」「新文展での審査員」「紀元2600年奉祝美術展委員」「東京美術学校(現・芸大)教授」「日展の審査員」などを歴任します。

 

 そうした多忙の中、ロンドンでリーチとの合同展なども行われていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「バーナード・リーチ」(Bernard Howell Leach、1887年1月5日 - 1979年5月6日)は、イギリス人の陶芸家であり、画家、デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問し、白樺派や民芸運動にも関わりが深い。日本民藝館の設立にあたり、柳宗悦に協力した。

1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章。1974年、に国際交流基金賞を受賞している。1977年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館はリーチの大規模回顧展を開いたが、リーチはその2年後の1979年にセント・アイブスで死去した。

リーチ・ポタリーは今なおセント・アイヴスに残り、リーチやその関係者たちの作品を展示する美術館を併設している。

 

 

 

 

 

 

 

 

冨本憲吉・富本一枝の話に関しましては語りたい事はまだまだ沢山ありますが、今回のところはこれにて終了とさせて頂きます。また機会がありましたら何処かで書かせて頂きたいと思っています。

それでは今回はこの辺で終わりになります。

また次回、お会い致しましょう。

 

 

2021年10月18日