音咲ヒカル blog No.1



 

 

 

 

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。今回は、実はここ数年くらい毎年のように今年こそはと思いつつもなかなか書くことが叶わなかった事柄を、書きたいと思います。


 以前何かのお話の際に、少し触れたこともありますが、私の母方の家系・家筋のお話です。ご存知の方は読み飛ばして頂いて構いませんが、以前お話した内容よりも今回は広範囲で、深く詳細に書いてみたいと思います。


 私の母方の家筋を辿ると、明治画壇にその名を轟かせ、大衆に圧倒的人気を誇った日本画家・尾竹三兄弟に辿り着きます。「尾竹越堂」「尾竹竹坡」「尾竹国観」、の三兄弟です。*「岡倉天心」、*「横山大観」と衝突し日本画壇史の表舞台から追放され抹消されてしまっていますが、その絵の腕前、画力は本物です。

 

 それが証拠に、各受賞作品、文展に出品した作品や、それ以外の傑作群は現在においても色あせることなく輝きを放っています。(記事内にに添付した画像は現在、「東京国立近代美術館」に所蔵されている作品です。2016年秋のMOMATコレクションにて展示されていた作品になります。「尾竹竹坡・作」)
 話を進める前に、三兄弟それぞれの略歴をご紹介いたします。



「尾竹越堂」(おたけ・えつどう):慶応4年1月28日、新潟県に生まれる。

 

 幼少時に東京にて歌川国政に浮世絵を学んだと伝えられ、明治18年ごろより国雪と号して新潟新聞に挿絵を描く。明治40年、*伊藤博文の命名により越堂と号する。大阪美術会委員、大阪図案意匠絵画会図案部審査員などをつとめる。明治27年富山共進会で銅賞、33年大阪画会で銀賞、第5回文展に「韓信」、第8回文展に「さつき頃」、第9回文展に「湖」、第10回文展に「魚樵問答」が入選。昭和6年12月3日歿(63歳)



「尾竹竹坡」(おたけ・ちくは):明治11年1月12日、新潟県生まれ。

 

 幼少時、南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の号を受ける。明治28年に川端玉章に入門。日本絵画協会、日本美術院連合絵画共進会などで受賞を重ねる。第1回文展入選。東京目黒・雅叙園竹坡の間デザイン。第3回文展にて「茸狩」が三等賞、第4回文展にて「おとずれ」が二等賞(最高賞)、第5回文展にて「水」が二等賞(最高賞)、昭和11年6月2日歿(58歳)



「尾竹国観」(おたけ・こっかん):明治13年4月21日、新潟県生まれ。

 

 幼くして笹田雲石に国観の号を受ける。東京学齢館「小国民」の全国児童画コンクールにて一等をとる。14歳の時、富山博覧会で三等、16歳で日本美術協会一等賞、翌年同会で銅牌を受けた。弱冠20前後から日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会を舞台に受賞を重ねる。第3回文展にて「油断」が二等賞(最高賞)、第5回文展にて「人真似」が三等賞を受賞。昭和20年5月20日歿(65歳)

 

 

 ※ 下記写真向かって左より、「尾竹竹坡」、中央は「尾竹越堂」、右が「尾竹国観」となります。

 

 


* 「岡倉天心」(おかくら・てんしん):思想家・文人。神奈川県横浜生まれ。本名・岡倉覚三(おかくら・かくぞう)東京美術学校(現・東京藝術大学の前身のひとつ)の設立に貢献。著書に「茶の本」「日本の覚醒」「東洋の理想」など。明治43年、ボストン美術館中国・日本美術部長就任。明治45年、文展審査員就任。

 

 

* 「横山大観」(よこやま・たいかん):日本画家。茨木県水戸市生まれ。東京美術学校に第一期生として入学、岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。近代日本画壇の巨匠。第1回文化勲章受賞。茨城県名誉県民。東京台東区名誉区民。

 


 

* 「伊藤博文」(いとう・ひろぶみ)政治家。元老。山口県生まれ。松下村塾にて吉田松陰に学ぶ。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。※ 岩倉使節団副使。初代兵庫県知事。大日本国憲法の起草の中心人物。初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣および、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任。木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛ら明治維新の三傑なき後の明治政府指導者の一人として辣腕を振るう。

 

 

* 「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されていた。

 

 写真、左から「木戸孝允・きどたかみつ」=(桂小五郎・かつらこごろう)「山口尚芳・やまぐちなおよし」「岩倉具視・いわくらともみ」「伊藤博文・いとうひろぶみ」「大久保利通・おおくぼとしみち」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、大方の紹介も終わりましたので話を進めます。政治的な敗北というものは恐ろしいもので、それは画壇においても致命的なものであったと思われます。尾竹三兄弟の画業・画力が非常に優れたものであったとしても、岡倉天心、横山大観という当時の日本画壇における政治的な意味も含む実力者との衝突・決裂は後の尾竹三兄弟に対する画業への評価にとって実に厳しいものでした。


 美術書、画界から、その名は抹消され、追放された形となりました。文展にての排除、政治的な策略による尾竹一派に対する落選劇。その後は次第に画壇のメインストリームから、姿を消して行くことになります。
 勿論そうした落選劇や、追放劇の後も画業への意欲は衰えることなく、三者三様に絵を描き続けました。実際に文展において、美術評論家と称する人たちから冷評された作品に、人だかりが出来るくらい、原画には力が宿っていました。美術評論家と称する人たちの当てにならない評価より、そうした人を引き付ける絵の魅力にこそ真価があると私は思います。

 話しは、もう少し続きますが、次回とさせてもらいます。 それから、最後にもう一点、作品を添付しておきます。こちらも東京国立近代美術館に所蔵の作品になります。それでは、また。

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月03日