音咲ヒカル blog No.2

 

 

 

 みなさん今晩は、音咲ヒカルです。前回からの続きになります。

 今回は、最初に尾竹兄弟が画壇から追放される大きなきっかけとなった、「国画玉成会」(会長:岡倉天心)での衝突劇の内容についてから、話を進めて行きたいと思います。


 「尾竹竹坡」「岡倉天心」の玉成会での衝突は、会長である岡倉天心のある所業について、竹坡が怒ったことに始まります。本来であれば幹事立会いのもとで開票する決まりになっていた玉成会の審査員を選ぶための投票箱を、会長である天心自身が決まりを破り、開票・集計・発表を一人で行ったことに対するものでした。


 当たり前の事ですが、会長だからといって決まりを破ったり、ないがしろにしていい理由はどこにもありません。そして、その会長である天心が選んだ審査員5人は「横山大観」、「*下村観山」、「*小堀鞆音」、「*川谷玉堂」、「*菱田春草」です。その内の3人、大観、観山、春草、は会長である天心の直系です。それが何を意味するのかといいますと、審査員内の多数決の票にあきらかに会長である天心の意志が反映されてくるということを示しているということです。


 審査員5名の内の3名、大観、観山、春草は会長天心の直系であり、言ってみれば会長天心のイエスマンです。そうなると審査が誰の意向をより反映しやすくなるかは明白です。その他にも審査員の選出においてのトラブルがありましたが、ここではその詳しい詳細は省略します。(いずれまた機会を改めて書きたいと思います)
 そうした玉成会においての会長天心とその派閥との衝突により、その後、竹坡は除名、展覧会に出品していた作品も撤回となりました。


 もちろん、すんなりと除名となった訳ではありません。会長である天心は竹坡の除名に対し残るように説得もしています。ですが、それ以上に竹坡自身の決意が固く除名という運びになったようです。
 この衝突劇はようするに天心を頂上とする派閥を形成し、派閥に属する画家を密室談合によって優遇しようと画策していた天心サイドと、派閥に関係なく純粋に作品の優劣によって賞を決めようとした尾竹兄弟サイドとのぶつかり合いであったということです。

 

 

 

 

 岡倉天心サイドとの衝突劇のあと、尾竹兄弟の高人気とは裏腹に文展での審査員による作品の質とは全く関係のない審査によって尾竹作品に対する落選劇が始まります。世の人々からは非常に高い人気を博した作品が落選の憂目を見ることになります。その落選した作品の中でも分かりやすい例が、尾竹国観の「勝ちどき」という作品です。


 尾竹作品がどれだけ人気があり、優れていたのか、そして画家として芸術家として純粋だったのか。尾竹兄弟、特に国観が好きだったという「*夏目漱石」が東京朝日新聞に書いた一文からうかがえます。「老大家・先輩画家であろうと絵が駄目なら歯に衣をきせずに頭ごなしに批判する。国観のこうしたやり方は男らしく敬服のほかない。したがって私は先生の「勝ちどき」を精いっぱい応援していきたい」とあります。


 夏目漱石自身は、その後、画壇サイドと中立な立場をとるようになりますが、私が思うに漱石自身の本音は、この一文が示した通りであったと思います。ですが、自分自身の文学者としての立場もありますから、ある時点から、ある意味、中立的な立場を演じなければならなかったのだと思います。



 


* 「夏目漱石」(なつめ・そうせき): 小説家、文学者、英文学者。東京生まれ。帝国大学(後の東京帝国大学、現・東京大学)卒業。イギリス留学から帰国後、東京帝国大学講師を務める。作品に「吾輩は猫である」「三四郎」「虞美人草」「坊ちゃん」「草枕」「門」など。「明暗」が絶筆。本名は金之助、漱石という号は友人であった*正岡子規より譲り受けたものである。日本を代表する文豪の一人。

 

 

* 「正岡子規」(まさおか・しき):日本の俳人、歌人、国語学研究家。俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人であった。東大予備門では「夏目漱石」・「*南方熊楠」・「*山田美妙」らと同窓。

 

 

 

 *「南方熊楠」(みなかた・くまぐす):日本の博物学者、生物学者、民俗学者。 1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。「*柳田國男」にして「日本人の可能性の極限」と称される。

 

 

 

 *「柳田國男」(やなぎだ・くにお):日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(没時陞叙)。
「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。

 

 

* 後にどこかで書くかも知れませんが、「尾竹越堂」の娘「尾竹一枝」(富本一枝)は当時、東京・成城に住んでいた「柳田國男」のところに数人の婦人たちを集め「話を聞く会」を主催していました。「柳田國男」に直接学びを求めるところに、「尾竹一枝」(富本一枝)のセンスの良さが光っていると、私は個人的に思っております。

 

 

* 「下村観山」(しもむら・かんざん): 日本画家、和歌山県生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)を第一期生として卒業。岡倉天心、横山大観、菱田春草と共に日本美術院の創設に関わる。

 

* 「菱田春草」(ひしだ・しゅんそう): 日本画家、長野県(現・飯田市)生まれ。岡倉天心の門下、明治期の日本画の革新に貢献。重要文化財に指定となる作品を多く残す。日本美術院の創設に貢献。


 

 

* 「小堀鞆音」(こぼり・ともと): 日本画家、栃木県佐野市生まれ。日本美術院創設に関わる。歴史画を得意とする。代表作に「武士」。厳島神社に所蔵の国宝「紺絲威鎧」「小桜韋黄返威鎧」の修理監督を務める。

 

* 「川谷玉堂」(かわい・ぎょくどう): 日本画家、愛知県生まれ。東京美術学校教授。風景画を得意とする。香淳皇后(こうじゅんこうごう・昭和天皇の皇后)の絵の指導役を務める。文化勲章受章。勲一等旭日大綬章。

 

 

 


 

 

 さて、最後は一部ですが、尾竹兄弟の作品の所蔵先を載せて終わりにしたいと思います。作品は所在不明のものも多いので一部のみのご案内になります。ちなみに今回ブログに載せている画像は前回同様、東京国立近代美術館に所蔵されている作品になります。「」内は作品名になります。

● 東京近代美術館 「油断」 「おとずれ」 「三浦大介」など。
● 東京目黒雅叙園 「手古舞い」 「筑波富士」 「梧桐」 「竹坡の間」 「巴」
● 宮城県立美術館 「花吹雪」 「創造」 「韓信」など。
● 新潟県立美術館 「大地円」 「八華会作品画集」 
● 巻神社 「虎溪三笑」 西蒲原郡巻町
● 源昌寺 「寒山拾得」 西蒲原郡並岡
● 富山市郷土博物館 「浄火 満潮」 「鶏頭双鶏」
● 富山市西の番神社 「三韓 貢ぎものを 奉る」 歴史絵馬
● 富山県中新川郡立山町 弓庄郷神社 「天の岩戸」
● 茨木県 水海道市 諏訪神社 「竜と虎」
● 福井・永平寺 天井絵
● 愛媛県 大三島神社 「白鷺」 「若武者」
● 講談社コレクション(講談社・社長室に保管のようです) 「絵本・建国神話」 「口絵原画と色紙」 「絵本・かちかち山」など。

 機会がありましたら、是非ご覧下さい。

 

 

 

2019年10月05日