音咲ヒカル blog No.9

 

 ご観覧いただきまして、ありがとうございます。みなさん今晩は、音咲ヒカルです。今回は予定していました通り、青踏の女・「富本一枝」(尾竹一枝)と人間国宝・「富本憲吉」について色々とお話をしてみたいと思います。長いので2回に分けてお話をしたいと思います。

 

 私が一枝さんの存在を初めて知ったのは、尾竹三兄弟に関するある資料を読んだ時でした。その時はまだ私自身、尾竹三兄弟についての知識もほとんどなく、尾竹兄弟がどのような人物で、どんな絵を描いていたのかもよく分からない頃の事です。

 尾竹兄弟の幾つかの絵と、岡倉天心、横山大観と衝突・決裂した文展事件の顛末などが書かれた文章の後に、少しだけ富本一枝(尾竹一枝)に関する文章が載っていました。

 

 「青踏」の女「尾竹紅吉」こと(尾竹一枝)、後の「富本一枝」は、尾竹三兄弟の長男である「尾竹越堂」の娘(長女)です。

 10代にして、新しい女、天才少女画家として注目を集めていた一枝、第12回・選画会に出展した作品「陶器」が金賞なしで、*「橋本関雪」(はしもとかんせつ)と並んで「銅賞」を獲得した。次の年に出展した「枇杷の実」は「褒状一等」でしたが、橋本関雪よりも遥かに高額な値段で、「枇杷の実」は買われています。

 

 尾竹一枝(富本一枝)は画家、詩人、作家、書家、編集者としての才能を持ち、他者のために尽くす人でもありました。スキャンダラスな一面が強調されがちですが、実像はそうではなく、一枝さんによって一家、財をなした人は多いのです。

 十分な才能と、知的好奇心を持ち、鋭い感性と美的センスをその内面に宿した一枝さんは、私の目から見ても非常に魅力的な存在として映ります。

 

 

 青踏社を退社した後、一枝は文芸演劇雑誌「番紅花」(さふらん)を創刊します。

 この「番紅花」で表紙絵などを描いてもらおうと以前から知っていた富本憲吉に依頼をするところから、一枝と憲吉の距離が近づき、二人の本格的な恋が始まります。

 

 

 また「番紅花」創刊にあたって、一枝は「森鴎外」に寄稿依頼をします。森鴎外は陸軍省の自身の部屋を訪ねて来た一枝の事を日記に書き残しています。そして多忙にもかかわらず「番紅花」への協力を約束してくれました。

 そして文芸演劇雑誌「番紅花」の創刊を祝って、「サフラン」を寄せてくれています。

 

 不思議なことですが、一枝が陸軍省に森鴎外を訪ねて行った時、同伴者として一緒に*神近市子(かみちかいちこ)も居ましたが、鴎外は神近市子の事は日記に書き記していません。鴎外が一枝に何かを強く感じていたことは間違いなく、そうでなければ「番紅花」に自身の作「サフラン」を寄せることもなかったように思います。

 一枝さんの人を惹きつける力の話は数多く残されていますが、森鴎外との出会いもそうした出会いの一つであると私は思っています。

 

 

 

 

 

 

 「略歴」 「富本一枝・とみもとかずえ」(尾竹一枝) 筆名「尾竹紅吉」 (1893年 - 1966年)、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。

 夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。

 同人雑誌「青踏」*「平塚らいてう」に惹かれて、明治45年(1912年)に「青鞜に入社する。紅吉を名のり、随筆や詩の執筆、表紙絵を担当する等、積極的に活動。

 平塚らいてうとの同性愛関係や、「五色の酒事件」、「吉原登楼事件」などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。

 

 青踏を退社後、大正3年(1914年)に、*森鷗外(もりおうがい)らの支援を受け、純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を自ら主宰し創刊する。

 同年に富本憲吉と結婚。共同で陶芸を制作する他、富本一枝の名で文芸活動を行う。憲吉との間には1男2女を儲けますが、思想的にも、芸術的にも、妥協を許さない二人の間には次第に溝が生じてしまい、離婚こそしませんでしたが、昭和21年(1945年)に別居することになります。

 戦後は書店を経営し、『暮しの手帖』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として暮しの手帖社から出版されています。

 

 

 

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* 「平塚らいてう」(ひらつからいてう)本名・平塚 明(ひらつか はる)、1886年〈明治19年〉 - 1971年〈昭和46年〉は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後にわたって活動した女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。

 日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒、同大学は2005年に平塚らいてう賞を創設した。

 

 大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった。

 しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。

 

 

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* 「神近市子」(かみちかいちこ) 1888年 - 1981年は、長崎県出身の日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。
 戦後は一時期政治家に転身し、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。

 津田女子英学塾卒。在学中に「青鞜社」に参加する。青森県立女学校の教師ののち、東京日日新聞の記者となった。
 1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人の伊藤野枝に心を移したことから神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。<日蔭茶屋事件>
 

 戦後、市子は民主婦人協会、自由人権協会設立に参加する。
第1回参議院議員通常選挙では全国区で落選したが、第26回衆議院議員総選挙に旧東京5区で左派社会党より出馬して当選した。連続当選は3回。1957年の売春防止法成立にも尽力した。

 

 

 

 

 

 

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* 「橋本 関雪」(はしもと かんせつ)1883年(明治16年)- 1945年(昭和20年)、日本画家。画像は関雪本人です。

 

 父から漢学を学び1903年(明治36年)、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年(大正2年)文展で二等賞、特選を受賞。帝展審査員。帝室技芸員にも選ばれている。帝国美術院。帝国芸術院会員。

 1940年(昭和15年)、建仁寺の襖絵を製作する。

 

 京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。

 庭を営むことが多く大津に走井居、明石に蟹紅鱸白荘、宝塚に冬花庵という別邸を造営した。また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。

 

 

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* 「森鴎外」(もりおうがい) <文久2年>・1862年 - 1922年〈大正11年〉。

 日本の明治・大正期の文豪、小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。石見国津和野(現:島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。

 

 大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表。

 日清戦争出征などにより一時期創作活動から遠ざかった時期もありますが、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。

 乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」などを執筆。
 晩年には、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。

 

 最晩年の森鴎外は宮内省図書頭として天皇の諡と元号の考証・編纂に着手した。しかし「帝諡考」(ていしこう)は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見い出した吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の「元号考」(げんごうこう)の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。

 

 

 

 

 

 ※ 「森鴎外」の文豪としての素晴らしさが、よく分からないという人も多いかも知れませんが、森鴎外の作品は今現在もなおその輝きを失うことなく、眩いばかりの神々しさを放ち、多くの人々を魅了し続けています。     

「三島由紀夫」も自身の著書「作家論」において、鴎外文学の「美」について、三島由紀夫自身の鴎外への想いと共に語っています。

 

 以下、「作家論」著・三島由紀夫より抜粋。

 

 ー 鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブルジョアの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な槍のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。

 現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向かって進むものだからだ。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。 -

 

 

 これは私の推測ですが、三島さんは鴎外の文豪としての才能だけでなく、他の仕事の部分も含めて見ていたのではないかと思います。特に森鴎外が宮内省図書頭となり、生涯最後の仕事とした「帝諡考」(ていしこう)、「元号考」(げんごうこう)を完成させたことの意味。鴎外の意図に三島さんは気付いていのではないかと、私は思っています。この件に関してはまた別な機会にでも、書きたいと思います。

 

 ★ 尚、森鴎外=「森家」と「尾竹家」の詳しい解説は書籍にて書かせて頂きます。森鴎外が一枝さんに感じた何かは、その後の「運命」「縁(えにし)」だったことが分かります。

 簡単に言えば森鴎外がこの世を去った後に「森家」と「尾竹家」は、「森家」の類(るい)と一枝の姉妹である福美の娘・美穂(みほ)の結婚により親戚関係になります。

 森鴎外も、一枝さんも、お互いにもしかしたら出会った瞬間に胸中に何かを予感していたのかも知れませんね。 詳細は「尾竹三兄弟・評伝」にて書かせていただきます。

 

「森鷗外・関連動画へのリンク」

 

森鷗外と北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさしんのう)輪王寺宮・東武天皇に関する動画へのリンクです。

森鷗外と輪王寺宮の話は動画後半、台湾で神となった真相のところで語られています。

 

https://youtu.be/4Z36yID1lxA?si=fIXthNC3f2DUaABW

 

また動画内では武者小路穣の名も出て来ます。尾竹家・森家・武者小路家の繋がりを知る方なら不思議な縁が見えて来るのではないかと思います。

 

 

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 * 「三島由紀夫」(みしまゆきお) 本名・平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年〈大正14年〉 - 1970年〈昭和45年〉は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。

 

 戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。

 

 代表作は小説に「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鏡子の家」「憂国」「豊饒の海」など、戯曲に「近代能楽集」「鹿鳴館」「サド侯爵夫人」などがある。

 

 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。

 バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 才能が才能を呼ぶのか、単なる偶然なのか、それとももっと大きな意思や力が働いているのか、このブログに登場する人物たちは皆、天意とも思えるような縁(えにし)によって、出会い、関わり合い、影響し合っているように、私には見えています。執筆中の著書には、これまでの尾竹家関連の本にはない新しい内容も含まれています。

 尾竹三兄弟の画業に焦点を当てた作品ではありますが、そのもう一つ先の疑問として、そもそも尾竹家とは何なのか?、という私の個人的な疑問の答えを、私なりの視点と解釈にて著書には呈示したいと思います。

 

 不思議ですよね。日本画壇から抹殺された尾竹兄弟の絵が、どうして今もって完全に日本画壇史の闇に葬り去られていないのか? 完全に抹殺・抹消されていない理由は何なのか? 画力があるから。当時人気があったから。そんな凡庸な理由だけではない何かがあるような気がして、私は調べを進めています。

 勿論、私が書く作品なので内容はかなり衝撃的なものになっています。これまでの尾竹家関連の本とは破壊力が違いますので、その辺は期待していて頂きたいと思います。

 

 世の中の状況的に発売は延期・予定は未定の状態ですが、その分内容は充実した作品になっています。

 まだまだ、執筆作業中なので仕上がりまで気は抜けませんが、皆さんの期待以上のものをお見せできると思いますので、楽しみにしていて下さい。

 

 

 

 次回の主役は、人間国宝・「富本憲吉」(とみもとけんきち)、「富本一枝」(尾竹一枝)の旦那様のお話です。

それでは、また次回。

 

 

 

2020年07月31日